『正法眼蔵』を読んでみます

      ~『現代語訳の試み』と読書ノート

超難解との誉れ(?)高い書『正法眼蔵』を読んでみます。
説いて聞かせようとして書かれたものである、
という一点を信じて、…。

4 仏蔵経浄見品~4

 舎利弗、是の万劫過ぎ已りて、仏有りて出世したまふ。号して普守如来、応供(オウグ)、正遍知(ショウヘンチ)、明行足(ミョウギョウソク)、善逝(ゼンゼイ)、世間解(セケンゲ)、無上士、調御丈夫(チョウゴジョウブ)、天人師、仏世尊と曰ふ。
 我爾(ソ)の時に、梵世に命終(ミョウジュウ)して閻浮提に生まれ、転輪王(ジョウオウ)と作(ナ)れり。号して共天(グウテン)と曰ふ。人寿(ニンジュ)九万歳なり。
 我形寿(ギョウジュ)を尽して、一切の楽具を以て、彼の仏及び九十億の比丘を供養せり。九万歳に於て、阿耨多羅三藐三菩提を求めんが為なり。
 是の普守仏、亦我に「汝来世に於て当(マサ)に作仏(サブツ)を得べし。」と記せず。何を以ての故に、我爾(ソ)の時に、諸法実相に通達(ツウダツ)すること能はず。計我、有所得の見に貪著したればなり。
 

【現代語訳】
 舎利弗よ、この一万劫を過ぎて仏が世に出現された。名付けて普守如来、応供(供養に値する者)、正遍知(正理を窮め尽くした知者)、明行足(智慧と実践の具わる者)、善逝(善所に行ける者)、世間解(世間を知解する者)、無上士(この上なき優れた人)、調御丈夫(如何なる者でもよく導く人)、天人師(人間や天衆を導く無上の師)、仏世尊(世に尊き仏)と呼ばれた。
 私はその時に、梵天世界で命を終えて閻浮提(須弥山南方の人間世界)に生まれ、転輪聖王(偉大な統治者)となった。名を共天といい、人としての年齢は九万歳であった。
 そこで私は、身命の尽きるまで、あらゆる楽しきもので、その普守仏と九十億の比丘(出家僧)を供養した。それは九万歳の中に阿耨多羅三藐三菩提(仏の無上の悟り)を求めるためであった。
 しかしこの普守仏は、又私に、「お前は来世に仏となるであろう。」とは予言されなかった。何故なら、私はその時に、諸法実相(全ての存在は真実である)の道理に達することが出来ず、自我を認めて、得るものがある、という考えに囚われていたからである。
 

《「計我、有所得の見」は、『全訳注』では「我のことを思い、有所得の考え」と訳しています。
 ここも、訳だけで通過します。》


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3 仏蔵経浄見品~3

 舎利弗、我過去を念ふに、万劫(マンゴウ)の中に於て、仏の出でたまふこと有ること無し。
 
(ソ)の時、初めの五百劫に九万の辟支仏(ビャクシブツ)有りき。我形寿(ギョウジュ)を尽して、悉く皆衣服飲食臥具医薬を供養して、尊重(ソンジュウ)し讃歎しき。
 次の五百劫に、復(マ)た四事を以て、八万四千億の諸(モロモロ)の辟支仏を供養して、尊重し讃歎しき。
 舎利弗、是の千劫を過ぎ已(オワ)りて、復た辟支仏無し。我時に閻浮提(エンブダイ)に死して梵世(ボンセ)の中に生まれ、大梵王と作(ナ)れり。是(カク)の如く展転(テンデン)して、五百劫中、常に梵世に生まれ、大梵王と作りて閻浮提に生まれず。
 是の五百劫を過ぎ已りて、閻浮提に下生(ゲジョウ)し、閻浮提を治化(ジケ)し、命終(ミョウジュウ)して四天王天に生まる。中に於て命終して忉利天(トウリテン)に生まれ、釈提桓因(シャクダイカンイン)と作れり。是の如く展転して、五百劫を満てて閻浮提に生まれ、五百劫を満てて梵世に生まれ、大梵王と作れり。
 舎利弗、我九千劫中に於て、但だ一たび閻浮提に生まれ、九千劫中に、但だ天上にのみ生まる。劫尽きて焼くる時、光音天に生まれ、世界成じ已れば、還(マ)た梵世に生まれて、九千劫中、都(スベ)て人中(ニンチュウ)に生まれず。
 舎利弗、是の九千劫に、諸仏辟支仏有ること無く、諸の衆生多く悪道に堕在す。
 

【現代語訳】
 舎利弗よ、私は過去を思うに、一万劫(劫は悠久の時間)の間、仏が世に出現されたことは無かった。
 その初めの五百劫には、九万の辟支仏(縁起の法で悟りを開く修行者)がいて、私は身命の尽きるまで、それら全ての者に衣服や飲食、臥具、医薬などを供養して、尊重し讃歎した。
 次の五百劫には、また四事(衣服、飲食、臥具、医薬など)でもって、八万四千億の諸々の辟支仏を供養して、尊重し讃歎した。
 舎利弗よ、この千劫が過ぎると辟支仏はいなくなった。そうして私は閻浮提(須弥山南方の人間の住む世界)で死んで梵天世界の中に生まれ、大梵王となった。このようにして五百劫の間、常に梵天世界に生まれて大梵王となり、閻浮提に生まれることは無かった。
 この五百劫が過ぎると、私は梵天世界から閻浮提へ生まれ下り、閻浮提を教化して、命が終わると四天王天に生まれた。そして命が終わると忉利天に生まれて、釈提桓因(帝釈天)となった。このように、私は五百劫を満たして閻浮提に生まれ、また五百劫を満たして梵天世界に生まれて大梵王となったのである。
 舎利弗よ、私は九千劫に、ただ一度だけ閻浮提に生まれ、九千劫の間はただ天上界にだけ生まれたのである。世界の終わりが来て劫火(世界を焼き尽くす火)に焼かれれば光音天に生まれ、世界が出来上がれば、また梵天世界に生まれて、九千劫の間、全く人間の中に生まれなかったのである。
 舎利弗よ、この九千劫の間には諸仏や辟支仏は無く、多くの衆生(人々)が悪道に堕ちたのである。
 
《ここは、次の第4節の前置きの話です。
 先に言ったように、第1節から続く、同じ主旨の話ですが、分かりにくいので、順を追って整理をしてみますと、…。
 釈尊の「過去」は「一万劫」であったようです。
 その「一万」のうちの初めの「五百劫」では「九万の辟支仏」を供養し、次の「五百劫」には「八万四千億の諸々の辟支仏」を供養しました。この、合わせて千劫の間は、「閻浮提(須弥山南方の人間の住む世界)」にいたようです。
 次の「五百劫」では、「梵天世界の中に生まれ、大梵王とな」り、さらに次の「五百劫」では「梵天世界から閻浮提へ生まれ下り」、次の「五百劫」では「四天王天に生ま」れ、そこから「忉利天に生まれて、釈提桓因(帝釈天)とな」りました。
 以上のようにして二千五百劫が過ぎ、以後ずっと「天上」界にいて、人間界からは離れていたようです。
 「我九千劫中に於て、但だ一たび閻浮提に生まれ」がよく分かりません。九千劫は、初めの千劫を除いたのでしょうが、その後閻浮提へは二回生まれているように思うのですが、…。
 もう一つ分からないのは、こういう転生の物語が何を意味するのか、ということですが、ともかく、その間に人間世界からは、いかなる仏も修行者もいなくなって、「諸の衆生多く悪道に堕在す」というありさまになったのだった、と語ります。
 さて、その一万劫の後の話が、次節です。》


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2 仏蔵経 浄見品~2

 舎利弗、我過世を念ふに、三億の仏に値(ア)たてまつれり。皆 弗沙(フシャ)と号す。
 我時に皆転輪聖王と作(ナ)りて、四事供養せしに、皆我を記せず、有所得(ウショトク)なるを以ての故なり。
 舎利弗、我過世を念ふに、万八千の仏に値ひたてまつることを得たり。皆山王と号し、劫(コウ)を上八(ジョウハチ)と名づく。我皆此の万八千の仏の所(ミモト)に於て、剃髪法衣(ホウエ)して、阿耨多羅三藐三菩提を修習(シュウジュウ)せしに、皆我を記せず、有所得なるを以ての故なり。
 舎利弗、我過世を念ふに、五百の仏に値ひたてまつることを得たり。皆華上(ケジョウ)と号す。我時に皆転輪聖王と作りて、悉く一切を以て、諸仏及び諸の弟子を供養せしに、皆我を記せず、有所得なるを以ての故なり。
 舎利弗、我過世を念ふに、五百の仏に値ひたてまつることを得たり。皆威徳と号す。我悉く供養せしも、皆我を記せず、有所得なるを以ての故なり。
 舎利弗、我過世を念ふに、二千の仏に値ひたてまつることを得たり。皆憍陳如(キョウジンニョ)と号す。我時に皆転輪聖王と作りて、悉く一切を以て、諸仏を供養せしに、皆我を記せず、有所得なるを以ての故なり。
 舎利弗、我過世を念ふに、九千の仏に値ひたてまつれり。皆迦葉と号す。我四事を以て、諸仏及び弟子衆を供養せしも、皆我を記せず、有所得なるを以ての故なり。
  

【現代語訳】
 舎利弗よ、私は過去を思うに、三億の仏にお会いした。それらは皆、弗沙という名であった。私は、その時に皆、転輪聖王となって、それらの仏に四事(衣服、飲食、臥具、医薬など)の供養を捧げたが、仏は皆 私に成仏の予言をされなかった。私が利益を求めていたからである。
 舎利弗よ、私は過去を思うに、一万八千の仏にお会いすることが出来た。それらは皆山王という名で、劫(時)は上八劫といった。私はすべて、この一万八千の仏の所で剃髪し、法衣を着けて、阿耨多羅三藐三菩提(仏の無上の悟り)を修めたが、仏は皆、私に成仏の予言をされなかった。私が利益を求めていたからである。
 舎利弗よ、私は過去を思うに、五百の仏にお会いすることが出来た。それらは皆、華上という名であった。私は、その時に皆、転輪聖王となって、あらゆるもので諸仏や多くの弟子を供養したが、仏は皆、私に成仏の予言をされなかった。私が利益を求めていたからである。
 舎利弗よ、私は過去を思うに、五百の仏にお会いすることが出来た。それらは皆、威徳という名であった。私は全ての仏を供養したが、仏は皆、私に成仏の予言をされなかった。私が利益を求めていたからである。
 舎利弗よ、私は過去を思うに、二千の仏にお会いすることが出来た。それらは皆、憍陳如という名であった。私は、その時に皆、転輪聖王となって、全てのもので諸仏を供養したが、仏は皆、私に成仏の予言をされなかった。私が利益を求めていたからである。
 舎利弗よ、私は過去を思うに、九千の仏にお会いした。それらは皆、迦葉という名であった。私は、四事(衣服、飲食、臥具、医薬など)で諸仏や弟子たちを供養したが、仏は皆、私に成仏の予言をされなかった。私が利益を求めていたからである。
  

《今日は訳だけでおきます。》


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