「即心是仏」の巻は『全訳注』では第一巻の第四番目に収められています。
「初めに」に挙げた以外の参考書は、以下の通り(下の括弧内は引用時の略称)です。
『正法眼蔵を読む』 春日佑芳著 ぺりかん社 (『読む』)
仏仏祖祖、いまだまぬかれず保任(ホウニン)しきたれるは、即心是仏のみなり。しかあるを、西天(サイテン)には即心是仏なし、震旦(シンタン)にはじめてきけり、学者おほくあやまるによりて、将錯就錯(ショウシャクジュシャク)せず。将錯就錯せざるがゆゑに、おほく外道に零落す。
いはゆる即心の話(ワ)をききて、痴人(チニン)おもはくは、衆生の慮知念覚の未発菩提心(ミホツボダイシン)なるを、すなはち仏とすとおもへり。これはかつて正師(ショウシ)にあはざるによりてなり。
【現代語訳】
仏たち祖師たちが、例外なく護持してきたものは、即心是仏だけです。しかしインドには、即心是仏という語は無く、中国に於いて初めて聞く言葉です。そこで仏道を学ぶ者の多くは誤解して、それを正しく理解しません。正しく理解しないために、多くの者が外道に成り果ててしまうのです。
いわゆる即心是仏の話を聞いて、愚かな人は、人々が考えたり知ったりする心の、そのまだ菩提心を起こしていない心のことを、仏と言うのであろうと思うのです。この誤りは、その人がまだ正法を明らかにした師に巡り会っていないことが原因なのです。
《即心是仏については、「辨道話」でも第四、第十六の問答として二回にわたって取り上げられていて、禅師の関心の深いところでありました。
サイト『試み』では、「辨道話」巻においてもそうでしたが、「即心是仏」という言葉にはしばしば「この心がそのまま仏であるということ」という補足が添えられていますが、『全訳注』が「この四つの漢文字は一つかみに丸ごと受領すべきものだというのが、制作者のこころであった」と言っていて、読んでみると確かに補足のような意味に考えることこそが排斥されているようですので、以下、その補足を省きます。
さて、ところでここでは「将錯就錯」でいきなり躓きます。諸注を列挙してみます。
『全訳注』・将は『もって』『ひきいて』の意。錯は『やすり』。その目は縦横にまじわり、いずれにうごかしてもひっかかる。それによって、錯綜、もしくは矛盾を表現する。この句の意味するところは、矛盾をもって矛盾を超えるとでもいうべきであろうか。
『読解』・この語句は「錯をもって錯につく」と読み下すことができるであろう。ちなみに「錯」という字は「まじる」とか「まぜる」とか「たがう」とかいった意味をもつ。そんなわけで、ここでは「かけ違い」なり「くい違い」なりといった錯綜した関係が問題になっているのだ。つまり、べったりと固着させられた実体的な一体性と固定的に分離された実体的な個別性という両側面の双方とも拒否するような微妙な関係への注目である。…つまり「即心」と「是仏」とを直結もせず分断もせずに、自在に関連づけて受け止めなければならないのである。
『読む』・「錯をもって錯につく」と読み、錯り(あやまり、と読むのでしょう)に錯りを重ねることをいうものである。だが道元は、この言葉を転用して、「錯った前提からは錯った結論しか出てこない。それと同様に、修からは証しか出てこない。また証からは修しか出てこない」という意味に用いている。したがってこれは、修と証とは同じ槪念であり、修証は一等だということを語る表現である。
『提唱』・字の意味は、誤りをもって誤りに就ける。…どこが間違っておって、どこがただしいかということをはっきりと究める。
何とも様々で困りますが、『読む』の言うように「この言葉を転用して」と考えることが許されれば、この説明が分かりやすいし、先に挙げた「辨道話」での即心是仏の話に直接的につながるところが多いように思います。》