『正法眼蔵』を読んでみます

      ~『現代語訳の試み』と読書ノート

超難解との誉れ(?)高い書『正法眼蔵』を読んでみます。
説いて聞かせようとして書かれたものである、
という一点を信じて、…。

1 得一法通一法

 しかあるがごとく、人もし仏道を修証するに、得一法(トクイッポウ)通一法(ツウ イッポウ)なり、遇一行(グウイチギョウ)修一行(シュイチギョウ)なり。
 

【現代語訳】
 このようにして、人がもし仏道を修行し悟るならば、一つの物事に会えばそのことに心を注ぎ、一つのなすべきことに会えばそのことを専一に行うのです。
 

《ここの後半は対句で、一つのことを言っているようです。
 「ただ今現在を一途に思いを込めて生きる」(前節)とは、具体的には日常的な何かをすることで、「家族のために料理を作る一行為であったり、論文を書くことであったりする」(『参究』)のですが、「この一行を仏法の活き(はたらき)と一つになって行ずるとき」(同)、つまり「一途に」行うとき、そのことについて明るくなる、そこを通して万法に至る、ということになるということのようです。
 同書はここで「有名な禅語『一花開きて天下春』は『得一法通一法』の具体例であると言ってよいであろう」と言います。
 私事ですが、大変懐かしい言葉で、私は唐木先生の講義でこの言葉を知りました。「春になって花が開くのではない、花が開いて春になるのだ、」という話を、私は目の覚める思いで聞いたものです。世界はレールの上を進んでいるのではない、一切は動的で、混沌の中を手探りで進んでいるのだ、…。
 もっとも、ここの場合は、『哲学』が、「多くの注解は、一法を得ることは法全体を得ることであると解する。そう解してよい場合もあるが、ここは一から全体へ直ちに飛躍するのは適当ではあるまい」として、「得坐禅、通作仏」、「一つの通路から、一つの根源へ導」く言葉だと解していてます。
 「通一法」という言い方には、その解の方が近いような気がして、ここの訳し方がよいように思われます。》

 

5 水と魚は自他の関係にはない

 このみち、このところ、大にあらず小にあらず、自にあらず他にあらず、さきよりあるにあらず、いま現ずるにあらざるがゆゑに、かくのごとくあるなり。

【現代語訳】
 この道、この所は、大きくもなく小さくもなく、自己でもなく他者でもなく、前からあるものでもなく、今現れたものでもない為に、このようにあるのです。
 

《「みち」「ところ」は、前節にあったそれで、つまり「万物を爾かあらしめる道理」であり、またその「法位」(『哲学』)であろうと思われますが、もちろん現成した仏法の真理というようなものが、目に見える形で存在することなど考えられるはずもありませんから、それが「大小を以て現されるものでもなく、自他の区別を以て云い得るものでもな」い(同)というのは、あまりに当然なことに思われて、何のための説明かと、かえって解りにくい気がします。
 あるいは、大小、自他、前後は、それぞれ水と魚、空と鳥を言うのでしょうか。
 水の方が大きいから、水があってその後の魚がいるのではない、水と魚は自他の関係にはない、二つで一つなのだ、もちろん魚が先にいて水があるということはない、そうではなくて、「かくのごとくある」のだ、…。
 さてその「かくのごとくある」、とは、どういうことか。無論、前節の「以水為命」「以魚為命」であるのですが、それを『哲学』は「現成であり、而今である」と言い、『釋意』は「如實な相である。卽ち『如是』である」と言います。
 『哲学』が、「万物各々その所を得るが故に万物たり得る。所は究極において法位であり、万物法位においてあるが故に万法である。…それ自身は観念でありながら、それを一つの事実として直観しているところに、わたくしは道元の本領があると推測する」と言います。
 禅師には、先のような、魚と水、鳥と空のあり方が、ただの譬えではなくて、現実の光景として見えていた、ということのようです。そういう光景を同書は「原事実」と呼び、その直観があるから、「その(禅師の)表現は詩的に昇華される」と言います。
 それは修証を行ずることによって見えてくる情景なのでしょうが、卑近な言い方で言えば、ただ今現在を一途に思いを込めて生きる中でも見えてくるのではないでしょうか。
 それは、私には、あの「大きな石の顔」のアアネスト(第一章7節)のあり方に近似するように思えます。》

4

 しかあるを、水をきはめ、そらをきはめてのち、水そらをゆかんと擬(ギ)する鳥魚あらんは、水にもそらにも、みちをうべからず、ところをうべからず。
 このところをうれば、この行李(アンリ)したがひて現成公案す。このみちをうれば、この行李したがひて現成公案なり。
 

【現代語訳】
 しかし、水をきわめ、空をきわめてから、水や空を行こうとする鳥や魚があれば、それらは水にも空にも道を得られず、住む所も得られないのです。
 我々がこの所を会得できれば、この日々の行いはそのまま真実の所です。この道を会得すれば、この日々の行いはそのまま真実の道となるのです。
 

《もし魚が、水のなんたるかを分かってから泳ごうと考えるなら、その魚は決して泳ぐことはできないだろう、とは、処世訓としても理解しやすいところです。
 なぜできないのかと言えば、「以魚為命」、魚が泳ぐことによって、水は初めて水になるからだ、ということになるのでしょう。
 逆に言えば、世界は一体で一つの世界をなしているのであって、その魚がその中で泳ぎ出さないうちは、その水はまだ水の本来の姿になっていないのです。
 人生にいかなる意味があるかということを、生きる前にどれほど考えても分からない、というような意味だと考えていいのではないでしょうか。生きるということ自体が人生の意味なのだ、というような…。
 「理由も分からずに押付けられたものを大人しく受取って、理由も分からずに生きていくのが、我々生きもののさだめだ」というのは、中島敦作『山月記』の李徴の嘆きであり、芥川龍之介の『河童』の世界では、河童の子供は生まれる前、胎内で生まれることへの可否を問われて、自分の意志でそれを決めることができる、とされていますが、それは、心ある若者ならその多くが一度は向き合わなくてはならない大きなテーマだと言えるでしょう。
 人間以外は、生きるということを無自覚で行うことができるけれども、人間だけは時にそれを自覚的に行わなくてはならなくなるのですが、それは、しばしばかえって苦しいことではあるものの、他の生きものと比べてみれば、やはり「進歩」(前節)なのだということなのでしょう。
 原文の「このところをうれば」、であり、「このみちをうれば」は、そういう魚・鳥の居場所を会得すれば、そういう生き方を会得すれば、という意味でしょう。
 そうして「現成公案」という言葉が出てきました。ここでは動詞として使われています。巻頭にあげた意味で言えば「仏法の真理は、万事万物が斯くある如く、ここに如実に現前している」(『哲学』)ですが、ここでは同書は「一挙手一投足、すべて理法の真理の顕現となるのである」と言います。》

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