しかあるがごとく、人もし仏道を修証するに、得一法(トクイッポウ)通一法(ツウ イッポウ)なり、遇一行(グウイチギョウ)修一行(シュイチギョウ)なり。
【現代語訳】
このようにして、人がもし仏道を修行し悟るならば、一つの物事に会えばそのことに心を注ぎ、一つのなすべきことに会えばそのことを専一に行うのです。
《ここの後半は対句で、一つのことを言っているようです。
「ただ今現在を一途に思いを込めて生きる」(前節)とは、具体的には日常的な何かをすることで、「家族のために料理を作る一行為であったり、論文を書くことであったりする」(『参究』)のですが、「この一行を仏法の活き(はたらき)と一つになって行ずるとき」(同)、つまり「一途に」行うとき、そのことについて明るくなる、そこを通して万法に至る、ということになるということのようです。
同書はここで「有名な禅語『一花開きて天下春』は『得一法通一法』の具体例であると言ってよいであろう」と言います。
私事ですが、大変懐かしい言葉で、私は唐木先生の講義でこの言葉を知りました。「春になって花が開くのではない、花が開いて春になるのだ、」という話を、私は目の覚める思いで聞いたものです。世界はレールの上を進んでいるのではない、一切は動的で、混沌の中を手探りで進んでいるのだ、…。
もっとも、ここの場合は、『哲学』が、「多くの注解は、一法を得ることは法全体を得ることであると解する。そう解してよい場合もあるが、ここは一から全体へ直ちに飛躍するのは適当ではあるまい」として、「得坐禅、通作仏」、「一つの通路から、一つの根源へ導」く言葉だと解していてます。
「通一法」という言い方には、その解の方が近いような気がして、ここの訳し方がよいように思われます。》