かれがごとく、万法もまたしかあり。塵中格外、おほく様子を帯せりといへども、参学眼力のおよぶばかりを、見取会取(エシュ)するなり。
万法の家風をきかんには、方円とみゆるよりほかに、のこりの海徳山徳おほくきはまりなく、よもの世界あることをしるべし。かたはらのみかくのごとくあるにあらず、直下(ジキゲ)も一滴もしかあるとしるべし。
【現代語訳】
この海のように、すべての存在も又その通りなのです。俗世間も仏法も、多くの様相を帯びているのですが、人は、自分の修行の見識の及ぶ所だけを見て理解するのです。
すべての存在の姿を知るには、それが四角や円に見えることの他にも、残りの海の功徳や山の功徳は限りなく多く、そこには無限の世界があることを知りなさい。自分の周りだけがそうなのではありません。自分の直下も一滴の水でさえも、そうであると知りなさい。
《先の海の例えに誘われて、ふと、私の周囲の空気がそのまま塩水で、すべてが海の中だったら、と思ってみると、案外に先の例えも現実感があります。この世を宮殿と思う人もあるでしょうし、息苦しく思う人もあるでしょう。世の中の姿も、人によって様々に見えていることは間違いありません。
その人の見える範囲がたまたまそのようであるとか、また、その人の心の持ちようによってそう見えるのであって、同じ場所にいても異なって見えるとか、周囲の見えようは人によって様々であるわけです。
悟りの深さによって、法の見え方も異なる、というのは、よく分かることです。
「諸法の仏法なる時節」(巻頭)、すべてのものが仏法である(万事万物が爾かある)という状態においては、すべてのものには「われわれに感化を及ぼす力(徳)が無限に残っている」(『参究』)のであって、そういう力は、今例に挙げた、海山に限らず、また我が周辺のみならず、足下にも、水の一滴にも、宿っているのだ、…。
これでこの巻のおよそ三分の二ほどを読んできたのですが、『哲学』が、「ここまでの所論で(現成公案の)前段を終るのである」として、その要約をしています。少し長くなりますが、引いておきます。
「冒頭、仏法の世界は迷悟を含む具体的世界であることを道破し、『花は愛惜に散り、草は棄嫌におふる』という含蓄ある表現で、その消息を語った(ここでの第一章5節まで)。そこまでが序論で、…本論に入ってからは、自己と万法との関係から迷悟の意義を明らかにし、万法進んで自己を修証するのが悟りであるとした(同第一章8節まで)。悟りには入るためには自己はその身心を脱落しなければならぬ所以を説き、仏法をならうとは「われをわするる」ことであるとした(同第三章3節まで)。このように自己がその自性を払拭したとき、万法が如実の相を呈すること、恰も天月が水に宿るがごときものと説く。しかし、そこの究竟の境地に一挙に到達するものではなく、、修行の時節の長短、参学眼力の深浅によって、万法は種々の象面を見せるのであるから、その一局面に執滞して満足してはならぬことを訓えている。…つぎに仏法に身を置いた実践によって、仏法の活計を修証しようとするのが、これから展開される後段の所論である」。》