『正法眼蔵』を読んでみます

      ~『現代語訳の試み』と読書ノート

超難解との誉れ(?)高い書『正法眼蔵』を読んでみます。
説いて聞かせようとして書かれたものである、
という一点を信じて、…。

2 前段(ここまで)の要約

 かれがごとく、万法もまたしかあり。塵中格外、おほく様子を帯せりといへども、参学眼力のおよぶばかりを、見取会取(エシュ)するなり。
 万法の家風をきかんには、方円とみゆるよりほかに、のこりの海徳山徳おほくきはまりなく、よもの世界あることをしるべし。かたはらのみかくのごとくあるにあらず、直下(ジキゲ)も一滴もしかあるとしるべし。
 

【現代語訳】
 この海のように、すべての存在も又その通りなのです。俗世間も仏法も、多くの様相を帯びているのですが、人は、自分の修行の見識の及ぶ所だけを見て理解するのです。
 すべての存在の姿を知るには、それが四角や円に見えることの他にも、残りの海の功徳や山の功徳は限りなく多く、そこには無限の世界があることを知りなさい。自分の周りだけがそうなのではありません。自分の直下も一滴の水でさえも、そうであると知りなさい。
  

《先の海の例えに誘われて、ふと、私の周囲の空気がそのまま塩水で、すべてが海の中だったら、と思ってみると、案外に先の例えも現実感があります。この世を宮殿と思う人もあるでしょうし、息苦しく思う人もあるでしょう。世の中の姿も、人によって様々に見えていることは間違いありません。
 その人の見える範囲がたまたまそのようであるとか、また、その人の心の持ちようによってそう見えるのであって、同じ場所にいても異なって見えるとか、周囲の見えようは人によって様々であるわけです。
 悟りの深さによって、法の見え方も異なる、というのは、よく分かることです。
 「諸法の仏法なる時節」(巻頭)、すべてのものが仏法である(万事万物が爾かある)という状態においては、すべてのものには「われわれに感化を及ぼす力(徳)が無限に残っている」(『参究』)のであって、そういう力は、今例に挙げた、海山に限らず、また我が周辺のみならず、足下にも、水の一滴にも、宿っているのだ、…。
 これでこの巻のおよそ三分の二ほどを読んできたのですが、『哲学』が、「ここまでの所論で(現成公案の)前段を終るのである」として、その要約をしています。少し長くなりますが、引いておきます。
 「冒頭、仏法の世界は迷悟を含む具体的世界であることを道破し、『花は愛惜に散り、草は棄嫌におふる』という含蓄ある表現で、その消息を語った(ここでの第一章5節まで)。そこまでが序論で、…本論に入ってからは、自己と万法との関係から迷悟の意義を明らかにし、万法進んで自己を修証するのが悟りであるとした(同第一章8節まで)。悟りには入るためには自己はその身心を脱落しなければならぬ所以を説き、仏法をならうとは「われをわするる」ことであるとした(同第三章3節まで)。このように自己がその自性を払拭したとき、万法が如実の相を呈すること、恰も天月が水に宿るがごときものと説く。しかし、そこの究竟の境地に一挙に到達するものではなく、、修行の時節の長短、参学眼力の深浅によって、万法は種々の象面を見せるのであるから、その一局面に執滞して満足してはならぬことを訓えている。…つぎに仏法に身を置いた実践によって、仏法の活計を修証しようとするのが、これから展開される後段の所論である」。》

1 一水四見

 身心(シンジン)に法いまだ参飽(サンポウ)せざるには、法すでにたれりとおぼゆ。法もし身心に充足すれば、ひとかたはたらずとおぼゆるなり。
 たとへば船にのりて、山なき海中にいでて四方をみるに、ただまろにのみみゆ、さらにことなる相みゆることなし。
 しかあれど、この大海、まろなるにあらず、方なるにあらず、のこれる海徳、つくすべからざるなり。宮殿(グウデン)のごとし、瓔珞(ヨウラク)のごとし。
 ただわがまなこのおよぶところ、しばらくまろにみゆるのみなり。
 

【現代語訳】
 自己の身心が、法を十分に会得していない時には、法は既に足りていると思えるものです。しかし、法がもし身心に充足すれば、一方ではまだ足りないと思えるものなのです。
 例えば舟に乗って、山のない海に出て四方を見れば、ただ円く見えるだけで、ほかの形は見えません。
 しかし、この大海は、円いものでも四角いものでもありません。残っている海の功徳は、窮めることが出来ないのです。
 海は、魚には宮殿のように見え、天人には瑠璃の玉飾りのように見えるのであり、人にはただ、自分の眼の届く所が一時的に円く見えるだけなのです。
 

《ここの初めの一節は、前節の終わりの悟りの深浅の話を受けたもので、何の道においてもよく言われる話です。その道に未熟なものは、ちょっとやっただけでそこそこできたように思うけれども、達人になればなるほど、まだ足りまだ足りないという気持ちになると聞きますが、それは仏道でも同じことのようです。
 そして以下の例えは、そういう立場の違いによって、同じものを見ても、異なって見えるという話です。
 『全訳注』が「大海の風景をもって説いているが、それは、道元自身の渡宋の時の体験でもあろうか」と言います。
 なるほどそう考えると、急に禅師が身近に感じられるような気がしますが、それにしても、「大海は、円いものでも四角いものでもありません」という形の問題から、いきなり「海徳(海の功徳・『哲学』は、効用功徳と言います)つくすべからざるなり」と意義・効用の話になるのは、どういう展開なのだろうと戸惑ってしまいます。
 そして続けて魚の視点、天人の視点と、さらに大きく転じます。これは「『一水四見』の譬えに基づいている」(『参究』)のだそうで、闊達な想像力ともいえますが、あまりにかけ離れた比較対照で、「ただ、自分の眼の届く所が一時的に円く見えるだけ」であることを言うのに、これほどでなくてもよさそうな気がします。
 要点は「悟りは、受け取る人の心のありようによって、大きくも宿れば小さくも宿る」(前節)ということであろうと思われます。
 なお、「一水四見」は「唯識のものの見方。人間にとっての河(=水)は、天人にとっては歩くことができる水晶の床、魚にとっては己の住みか、餓鬼にとっては炎の燃え上がる膿の流れに見える」というものだ、と「ウイキペデイア」にあります。他のサイトもありましたが、これが一番解りやすく思えましたので。》

6 時節の長短

6 ふかきことはたかき分量なるべし。時節の長短は、大水小水を検点(ケンテン)し、天月の広狭を辨取(ベンシュ)すべし。

【現代語訳】
 水の深さは月の高さの分量があるということです。月を宿す時節が長いか短いかは、大水や小水の月を点検して、その天空の月の大きさを知りなさい。(この訳不確実)
 

《訳文にある「(この訳不確実)」という言葉は、私が書いたのではありません。お借りしている訳文に元々付されているもので、ご苦心のほどが思われます。実は『全訳注』も「時節の」以下について「余情陰々として解しがたい一節であるが」と言っています。
 ここについては、『参究』が懇切に説いています。
 「第一文のさしあたっての意味は、水が深いことは、天月の高いことである、であろう。これは、人の証悟の深さと本証の高さへの暗喩である。…修行者の証悟が深くなれば深くなるほど、本証はますます至高性を顕し、その無限の至高性は果てしがないのである」。
 前節からのつながりで考えれば、自他共に根本的なところで一体となる(前節)というのは、ここの言葉で言えば、万物が「本証」において向き合うということで、そこでは、修行者の「証悟」の深さはそのままその修行者の住む世界の大きさであり、至高さである、…。前節の画家の話で喩えれば、画家の目が純粋になればなるほど、それにつれて風景は純粋さを増す、というようなことになりましょうか。
 「分量」という言葉があまりに俗で気になりますが、「分・量」と考えると、少し読みやすい気がします。
 「時節」はこの巻の冒頭に「諸法の仏法なる時節」とあり、「事々物々が、そのもののあるべき姿で存在している時には」と解しました。「時には」としましたが、「という状態においては」と言った方がよかったようです。
 ここにそれをそのまま当てはめて、「事々物々が、そのもののあるべき姿で存在している状態」、つまり万物が「本証」において向き合っている状態、その長短は、修行者の大小(大水小水)を点検し、そこに映る本証(天月)の広い狭い(大小深浅)を理解しなければならない、…。
 『哲学』が、「滴露も全天を映すという道理は一つであるが、しかし…深く映る月は高いのであって、水の広狭深浅に応じて月はいかようにも映る。…その道程に応じて悟りに深浅のあることを喩えているのである」と言って、古註の「大水には天月広く、小水には天月狭ク移る(映る)。声聞心には声聞心の月が移り、菩薩心には菩薩心の月が移る」という解釈を「穏当であろう」として示しています。
 月はそのままの姿で水に宿るけれども、水の大きさによって大きくも映れば小さくも映る、悟りは、受け取る人の心のありようによって、大きくも宿れば小さくも宿る、というような意味のようです。
 前節の「前後際断」はその「長短」の前後なのでしょうか。》

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