『正法眼蔵』を読んでみます

      ~『現代語訳の試み』と読書ノート

超難解との誉れ(?)高い書『正法眼蔵』を読んでみます。
説いて聞かせようとして書かれたものである、
という一点を信じて、…。

外道の邪教

 「おほよそ外道の邪教にしたがうて、牛戒(ゴカイ)、鹿戒(ロクカイ)、羅刹戒(ラセツカイ)、鬼戒、瘂戒(アカイ)、聾戒(ロウカイ)、狗戒、雞戒、雉戒(チカイ)、灰を以て身に塗り、長髪を相と為し、羊を以て時を祠(マツ)り、先に咒(ジュ)して後に殺し、四月(ヨツキ)火に事(ツカ)へ、七日風に服し、百千億華(ケ)もて、諸天に供養し、諸の欲(ネガ)ふ所の願、此れに因りて成就すといふ。
 是(カク)の如き等の法は、能く解脱の因と為らんには、是の処(コトワリ)有ること無けん。智者の讃(ホ)めざる所、唐(ムナ)しく苦しんで善報なし。」
 かくのごとくなるがゆゑに、いたづらに邪道に帰せざらんこと、あきらかに甄究(ケンキュウ)すべし。たとひこれらの戒にことなる法なりとも、その道理、もし孤樹 制多等の道理に符合せらば、帰依することなかれ。
 人身(ニンシン)うることかたし、仏法あふことまれなり。いたづらに鬼神の眷属として一生をわたり、むなしく邪見の流類(ルルイ)として多生(タショウ)をすごさん、かなしむべし。
 はやく仏法僧の三宝に帰依したてまつりて、衆苦を解脱するのみにあらず、菩提を成就すべし。

 

【現代語訳】
 また世尊の言われるには、
「およそ外道の邪教に従って、牛戒 鹿戒(牛や鹿の行動に習う戒)、羅刹戒 鬼戒(邪悪な鬼神に習う戒)、瘂戒 聾戒(聾唖の如くする戒)、狗戒 雞戒(イヌ、ニワトリ、キジの行動に習う戒)を守ったり、灰を身体に塗って髪を長く伸ばしたり、羊でもって時の神を祭り、先ず呪(まじな)いをして後に殺したり、四ヶ月間火に仕えたり、七日間 風に仕えたり、百千億の華で諸々の天神に供養したりすれば、諸々の願いを成就することが出来ると言うが、このような方法は、解脱の因縁とはならない。これらは知者の褒めない行為であり、徒に苦しいばかりで善い報いはないのである。」と。
 このようなことですから、徒に邪道に帰依してはならないということを明らかに弁えなさい。たとえこれらの戒と異なる法であっても、その道理が若し一樹や廟などの神を祭る道理と一致するのであれば、帰依してはいけません。
 人間として生まれることは難しく、仏法に出会うことは希なのです。徒に鬼神の一族となって一生を送り、空しくよこしまな考えの部類として、多くの生を過ごすならば、それは悲しいことです。
 ですから、すでに「仏陀仏法僧団」の三宝に帰依して、多くの苦を解脱するだけでなく、菩提(仏の悟り)を成就するように努めなさい。
 

《「牛戒、鹿戒、…雞戒」は動物のマネをしなければならないという「戒」を行うということのようです。後に出てくる「灰を以て身に塗り」以下のことは「外道の邪教」にありそうなことですが、そういう動物のマネを勧めるような変な教えがあったのでしょうか。
 いずれにしても、そういう馬鹿なことで「解脱」や「菩提」が得られるとはとても思えませんが、熊がしゃべったりする話が通用する時代のことだと思えば、そういう教えもあり得たのかも知れません。逆にそういうことが普通に信じられている世界では、仏法僧に帰依するなどということは、大変奇妙で、新奇で、斬新な教えであっただろう、というふうにも思われます。
 なお、ここの訳では初めに「世尊の言われるには」とあり、禅師が釈尊の言葉を引用したようになっています(多分そうなのでしょう)が、『全訳注』の原文にはその初めの言葉はなく、また続くカギ括弧「 」の中に当たる部分は漢文で、しかも括弧が付けてなく、禅師自身の言葉として扱われている書き方になっています。


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2 諸山園苑帰依

 世尊 (ノタマ)はく、
「衆人所逼(ショヒツ)を怖れて、多く諸山園苑(オンエン) 及び叢林孤樹制多(セイタ)等に帰依す。此の帰依は勝(ショウ)に非ず、此の帰依は尊に非ず。此の帰依に因りては、能く衆苦を解脱せず。
 諸の仏に帰依し、及び法僧に帰依すること有るは、四聖諦(シショウタイ)の中に於いて、恆(ツネ)に慧を以て観察し、苦を知り、苦の集を知り、永く衆苦(シュク)を超えんことを知り、八支(ハッシ)の聖道(ショウドウ)、安穏の涅槃に趣くと知る。
 此の帰依は最勝なり、此の帰依は最尊なり。必ず此の帰依に因りて、能く衆苦を解脱せん。」
 世尊あきらかに一切衆生のためにしめしまします。衆生いたづらに所逼(ショヒツ)をおそれて、山神(サンジン)鬼神(キジン)等に帰依し、あるいは外道の制多に帰依することなかれ。かれはその帰依によりて衆苦(シュク)を解脱することなし。
 

【現代語訳】
 世尊(釈尊)は次のように言われました。
「人々は窮迫することを怖れて、多くの人が山々や庭園、林、一樹、廟などの神に帰依している。だがこの帰依は勝れたものでも尊いものでもない。この帰依によっては、多くの苦を解脱することはできない。
 しかし諸人が仏に帰依し、仏の法や僧団に帰依するならば、その四聖諦(苦、集、滅、道の四つの真理)の教えの中で、常に智慧によって世間を観察して、その苦を知り、苦の原因を知り、永く諸々の苦を離れることを知り、そして八つの聖道(正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、正定)によって、安穏の涅槃(仏の悟り)に赴くことを知るであろう。
 この帰依は最も勝れ、最も尊いものである。必ずこの帰依によって、多くの苦を解脱することが出来るのである。」と。
 このように 世尊(釈尊)は、すべての人々のために教え示されました。ですから 世の人々は、徒に窮迫することを怖れて山神や鬼神等に帰依したり、外道(仏教以外の教え)を祭る廟などに帰依してはいけません。彼は、その帰依によって諸苦を解脱することはないのです。
 

《ここは、たとえば自然信仰を越えるものとしての帰依三宝を説いているようです。「諸山園苑及び叢林孤樹制多」のうち、「制多」を除くすべては自然のものです。
 山や野原、林、木々といった自然のものに神が宿るというの、何やら日本風の考え方のようですが、古代の人間世界ではどこにでもあった ものなのでしょう。
 そして、このように改めて強調されると、この仏法は、そういう従来の古代信仰を越えた、新しい教えなのだと言っているようにも見えます。
 平安末期に一般的であったらしい、浄土信仰、念仏思想という「弥陀の本願」にひとえにすがる考え方ではなく、坐禅し供養し日常生活を行ずることが涅槃の世界なのだとする考え方は、当時の日本にあっては目新しい新興宗教であって、禅師には、その先達としての強い自負があったらしいことは、『辨道話』においても感じられたことでした。》


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1 法華経

 かくのごとくの三宝に帰依したてまつるなり。もし薄福少徳の衆生は、三宝の名字(ミョウジ)なほききたてまつらざるなり。いかにいはんや帰依したてまつることをえんや。
 法華経に曰く、
「是の諸の罪の衆生は、悪業(アクゴウ)の因縁を以て、阿僧祇劫(アソウギコウ)を過ぐれども、三宝の名(ミナ)を聞かず。」
 法華経は、諸仏如来一大事の因縁なり。大師釈尊所説の諸経のなかには、法華経これ大王なり、大師なり。余経余法は、みなこれ法華経の臣民(シンミン)なり、眷属なり。
 法華経の所説、これまことなり。余経中の所説、みな方便を帯せり、ほとけの本意にあらず。余経中の説をきたして、法華に比校したてまつらん、これ逆なるべし。
 法華の功徳力(クドクリキ)をかうぶらざれば、余経あるべからず。余経はみな法華に帰投したてまつらんことをまつなり。この法華経のなかに、いまの説まします。しるべし、三宝の功徳、まさに最尊なり、最上なりといふこと。
 

【現代語訳】
 このような三宝に帰依し奉るのです。もし福うすく徳の少ない人間であれば、この三宝の名称すら聞き奉ることがないのです。まして帰依し奉ることなど出来ましょうか。
 法華経には次のように説かれています。
「この罪多き人々は、悪しき行いのために、無量の時を経ても、三宝(仏陀、仏法、僧団)の名を聞くことがない。」と。
 法華経は、諸仏如来が世に出現した大切な因縁を説いた経典です。大師釈尊の説いた諸経の中では、法華経は大王であり大師なのです。その他の経典その他の教えは、皆法華経に従う臣下であり家族なのです。
 法華経に説かれている教えは真実です。他経の中に説かれている教えは、皆方便を帯びていて、釈尊の本意ではありません。ですから、他経の中の教説によって、法華経を比較して論ずることは本来逆なのです。
 法華経の功徳力を受けなければ、他の経は存在しなかったのです。他の経は、皆法華経に従うことを待ち望んでいるのです。この法華経の中に、先ほどの教えが説かれています。これによって、三宝の功徳は、まさに最尊であり最上であることを知りなさい。
 

《禅師の解説です。
 「法華経は、諸仏如来 一大事の因縁」であって、こうした三宝に帰依すべしということは、その法華経に書かれているのだから、「三宝の功徳、まさに最尊…、最上」であること間違いなし、…。
 昔、東京で道を歩いていたら、呼び止められて某仏教系新興宗教に誘われた事がありました。ついて行って話を聞いたのですが、私が曹洞宗の寺の生まれだと話すと、その人が、釈迦が最後に説いた教えは法華経で、したがってそれが釈迦の到達点であり、曹洞宗の言う坐禅はそこに至る過程に過ぎなかったのだ、だから坐禅を言う曹洞宗よりも自分たちの教えの方が正しいのだ、というような話をしたことを思い出します。
 そのことはそれだけで私は帰ったのですが、そういえば、今でも、法華経と坐禅ということは、どう関わるのだろうか、という関心が残っています。
 法華経はいわば到達点で、そこに至る方法論が坐禅だというふうに、一応は言えるのでしょうが、その方法論・過程こそが実はそのまま到達点だというのが、いわゆる禅の教えの発見したことだ、と言っていいのではないでしょうか。法華経を読まないままでの話で、何とも、…。


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