『正法眼蔵』を読んでみます

      ~『現代語訳の試み』と読書ノート

超難解との誉れ(?)高い書『正法眼蔵』を読んでみます。
説いて聞かせようとして書かれたものである、
という一点を信じて、…。

2 三宝四種~2

 理体の三宝。
五分法身
(ゴブンホッシン)を名づけて仏の宝と為す。
滅理無為を名づけて法の宝と為す。
無学を学ぶ功徳を名づけて僧の宝と為す。
【現代語訳】
 理体の三宝(真如の法身を体とする三宝)。
仏戒を保つ身、禅定を修する身、仏の智慧を証する身、煩悩を解脱した身、解脱を知見する身の五つを仏陀の宝と呼び、
寂滅の真理による無為(因果を離れた不変の真実)を仏法の宝と呼び、
煩悩を断ちつくして、更に学ぶべきものが無い悟りを学ぶ功徳を僧団の宝と呼ぶ。
 

《三つ目は「理体の三宝」ですが、『全訳注』が「理論的な意味における三宝」と言います。『提唱』が「真実の姿」による三宝と言っていますが、その「真実」もそういうことなのでしょう。
 「五分法身」は、『提唱』に「戒」「定」「慧」「解脱」「解脱知見」という「釈尊の説かれた教えの実体」を言う、とありますが、「実体」の意味が分かりません。この書は口述筆記で、話がの中で軽く使われた、無くてもいい言葉のように思います。
 例えば「化儀」における釈尊が人間釈尊ないし偶像的に把握された全体像としての釈尊であるのに対して、こちらは五つの修行方法をたどることによって理論的に構成された釈尊、哲学的に把握された釈尊とでも考えたらいいのでしょうか。
 「滅理無為」は、『全訳注』が「寂滅して無為なる」と言います。涅槃に入って自適であるというようなことかと思われますが、それが「法」であるというのが、これもよく分かりません。
 「無学」は学が無いのではなくてすでに学ぶものが無い状態(もっとも、原文は漢文で「学無学功徳」と書かれていて『提唱』は「学、無学の功徳」と読んで、「まだ真実を得ていない人(現在学んでいる人、という解釈なのでしょう)とすでに得た人」と解して全く異なります)。
 そこに至った「功徳」(よい報いとして与えられたもの、というような意味でしょうか)を僧と呼ぶ、というのがよく分かりません。無学を学ぶ境地を与えられることを、僧というというようなことでしょうか。》

 一体の三宝。
証理大覚
(ダイガク)を名づけて仏の宝と為す。
清浄
(ショウジョウ)離染を名づけて法の宝と為す。
至理和合、無擁無滞を名づけて僧の宝と為す。」
【現代語訳】
 一体の三宝(三宝の一々の本体が同体である三宝)。
寂滅の真理を証する大いなる悟りを仏陀の宝と呼び、
清浄にして煩悩を離れていることを仏法の宝と呼ぶ。
寂滅の真理に達して和合し、蓄えることなく滞ることなきを僧団の宝と呼ぶ。」
 

《「一体の三宝」というのは、「三宝のそれぞれにそなわる三宝」(『全訳注』)、「一つのもので仏・法・僧のそれぞれについて全部を包み込んでおるという考え方」(『提唱』)である、というのですが、よく分からない言い方で、ここの訳の方が分かりやすく思われます。
 そして挙げられた三つは、当然ながらいずれも同じ状態を言っているように見えて(「本体が同体である」のですから当然とも言えますが)、強いて言えば、「証理大覚」は求めるもの、「清浄離染」はそこに至る方法論、「至理和合、無擁無滞」はその道程において得られる喜び、というようなことでしょうか。


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1 三宝四種~1

住持の三宝。
形像(ギョウゾウ)塔廟(トウビョウ)は仏の宝。
黄紙(オウシ)朱軸の所伝は法の宝。
剃髪染衣(センネ)戒法の儀相は僧の宝。
【現代語訳】
住持の三宝(釈尊の教えを受けつぎ、後世に守り伝えている三宝)。
仏像や仏塔は仏陀の宝であり、
伝えられた黄紙 朱軸の経巻は仏法の宝であり、
剃髪して袈裟を着け、戒法を受けた出家者は僧団の宝である。
 

《三宝というのは仏法僧ですが、何を仏・法・僧とするかというのが場合によって異なるということのようです。
 以下、その四つの場合をあげていくわけですが、「住持の三宝」は、釈尊の教えを後世に伝えるという点では、仏像・仏塔と経巻・出家者がそれである、ということのようです。》

化儀(ケギ)の三宝。
釈迦牟尼世尊は仏の宝。
所転の法輪、流布の聖教(ショウギョウ)は法の宝。
阿若憍陳如(アニャキョウジンニョ)等の五人は僧の宝。
【現代語訳】
化儀の三宝(釈尊が人々を教化された三宝)。
釈尊は仏陀の宝であり、
釈尊の説法による流布の聖教は仏法の宝であり、
アニャキョウジンニョ等の五人の比丘を始めとする釈尊の出家の弟子たちは僧団の宝である。
 

《また、次の「化儀の三宝」、衆生を教化するという点での三宝は、その精神的拠り所としての釈尊自身、その説かれた教え(これが前の「住持」の場合の「経巻」とどう違うのか、よく分かりません)、それと優れた伝道者、の三つ。
 こうして二つの場合を見てみると、「仏」は究極の目標となるもの、「法」はその目標へ導く指標またはその手立てを教えるもの、「僧」はその道行に同行して応援援助するもの、というような意味に使われているように思いますが、そういうことでいいのでしょうか。》


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帰依と三宝

 いはゆる帰依とは、帰は帰投なり、依は依伏(エブク)なり。このゆゑに帰依といふ。帰投の相は、たとへば子の父に帰するがごとし、依伏は、たとへば民の王に依(エ)するがごとし。いはゆる救済(グサイ)の言(ゴン)なり。
 仏はこれ大師なるがゆゑに帰依す、法は良薬なるがゆゑに帰依す、僧は勝友なるがゆゑに帰依す。
 問ふ、「何が故にか偏(ヒトヘ)に此の三に帰するや。」
 答ふ、「此の三種は、畢竟帰処なるを以て、能く衆生をして生死(ショウジ)を出離し、大菩提を証せしむるが故に帰す。此(コノ)三、畢竟不可思議功徳なり。」
 仏は西天には仏陀耶と称す、震旦(シンタン)には覚と翻す。無上正等覚なり。
 法は西天には達磨と称す、また曇無(ドンム)と称す。梵音(ボンノン)の不同なり。震旦には法と翻す。一切の善悪無記の法、ともに法と称すといへども、いま三宝のなかの帰依するところの法は、軌則の法なり。
 僧は西天には僧伽(ソウギャ)と称す、震旦には和合衆(ワゴウシュ)と翻す。かくのごとく称讃しきたれり。
 

【現代語訳】
 いわゆる帰依とは、帰は帰投(身心を投げ出してつき従うこと)であり、依は依伏(たよって従うこと)です。このために帰依というのです。帰投の姿は、例えば子が父につき従うようであり、依伏は民衆が国王に従うようなものです。これはいわゆる救済の言葉なのです。
 仏は大いなる師であるから帰依するのです、仏の法は煩悩を癒やす良薬であるから帰依するのです、仏の僧団は優れた友であるから帰依するのです。
 問う、「なぜひたすらに、この三種に帰依するのですか。」
 答え、「この三種は、要するに人々の帰着する所であり、よく人々の生死輪廻を解き放ち、大いなる悟りを得させるから帰依するのです。この三種には、つまり不可思議な功徳があるのです。」
 仏のことをインドではブッダヤと呼び、中国では覚(覚者)と翻訳しています。覚は無上正等覚であり、この上ない正しい悟りの意です。
 法のことをインドではダルマと呼び、またドンムと呼んでいます。これは梵語(インドの言語)の音の不同によります。これを中国では法と翻訳しています。すべての善、悪、無記(善でも悪でもない)の法を、共に法と呼んでいますが、今三宝(仏、法、僧団)の中の帰依するところの法とは規則の法です。
 僧団は、インドではソウギャと呼び、中国では和合衆と翻訳しています。インドや中国では、このように三宝を称賛してきたのです。
 

《続いて、「帰依」と「三宝」という二つの言葉の禅師による解説です。
 まず、「帰依」は、「帰投」と「依伏」であり、子が父に「帰する」ようにすることであり、民が王に「依する」ようにする、つまり、信じて従い、権威を認めて従うことであって、それをミックスしたのが、「帰依」するということだ、ということでしょうか。
 次に「三宝」の解説です。
 「仏はこれ大師」とは、私たちに目指すべき行く手、目標を示してくれるもの、「法は良薬」とは、そこへ赴く行き方を示す、道中において修正を助けてくれるもの、「僧は勝友」とは、その道中を同行して励ましてくれるもの、というような意味と考えるといいでしょうか。
 というわけで、「此の三種は畢竟帰処」、人の行き着くべき処であって、「不可思議功徳なり」、つまりは無限の功徳をもたらすものである、…。
 ちなみに、この問答は原文が漢文で、引用のようですが、「此三、畢竟不可思議功徳なり」は和文で、『全訳注』は、ここを引用に含めず、禅師の言葉として扱っています。》


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