『正法眼蔵』を読んでみます

      ~『現代語訳の試み』と読書ノート

超難解との誉れ(?)高い書『正法眼蔵』を読んでみます。
説いて聞かせようとして書かれたものである、
という一点を信じて、…。

仏法僧を敬うや否や

「帰依三宝」巻は、『全訳注』では第八巻に、前の「供養諸仏」に続いて載っています。同じように禅師の没後に書写されたものです。
 

 禅苑清規(ゼンネンシンギ)に曰く、「仏法僧を敬うや否や」(一百二十問第一)。
 あきらかにしりぬ、西天東土、仏祖正伝するところは、恭敬(クギョウ)仏法僧なり。帰依せざれば恭敬せず、恭敬せざれば帰依すべからず。
 この帰依仏法僧の功徳、かならず感応(カンノウ)道交するとき成就するなり。たとひ天上人間地獄鬼畜なりといへども、感応道交すればかならず帰依したてまつるなり。
 すでに帰依したてまつるがごときは、生生世世(ショウショウセセ)、在在処処に増長し、かならず積功(シャック)累徳し、阿耨多羅三藐三菩提を成就するなり。
 おのづから悪友にひかれ、魔障(マショウ)にあうて、しばらく断善根となり、一闡提(センダイ)となれども、つひには続善根し、その功徳増長するなり。帰依三宝の功徳、つひに不朽なり。
 その帰依三宝とは、まさに浄信をもはらにして、あるひは如来現在世にもあれ、あるひは如来滅後にもあれ、合掌し低頭(テイヅ)して、口にとなへていはく、
「我某甲(ワレソレガシ)、今身(コンジン)より仏身にいたるまで、仏に帰依す。法に帰依す。僧に帰依す。仏に両足の尊に帰依す。法に離欲の尊に帰依す。僧に衆中の尊に帰依す。仏に帰依し竟(オ)わる。法に帰依し竟わる。僧に帰依し竟わる。」
 はるかに仏果菩提をこころざして、かくのごとく僧那を始発(シホツ)するなり。しかあればすなはち、身心(シンジン)いまも刹那刹那に消滅すといへども、法身(ホッシン)  かならず長養して、菩提を成就するなり。
 

【現代語訳】
 禅門の規範である禅苑清規には、「仏、仏の法、仏の僧団を敬っているであろうか。(一百二十問の第一)」とあります。
 このことから明かに知られることは、インドや中国の仏祖の正しく伝えるところの教えは、仏、仏の法、仏の僧団を敬うということです。しかし、仏、仏の法、仏の僧団に帰依しなければそれらを敬うことは出来ないのであり、敬わなければ帰依することは出来ないのです。
 この、仏、法、僧団に帰依する功徳は、必ず仏、法、僧団とその心が相通じる時に成就するのです。たとえ天上界、人間界、地獄界、餓鬼や畜生界の者であっても、その心が仏、法、僧団と相通じれば、必ずその者は帰依し奉るのです。
 すでに仏、法、僧団に帰依し奉っている者は、未来永劫にあらゆる所でその功徳を増長し、功徳を積み重ねて、必ず仏の無上の悟りを成就するのです。
 たまたま悪友に引かれて魔障にあい、暫く善根を断って成仏しない者となっても、遂には善根を積む身となってその功徳を増長するのです。この三宝(仏、仏の法、仏の僧団)に帰依する功徳は、遂に朽ちることがないのです。
 三宝に帰依するとは、まさに清浄な信心を専らにして、或は如来(釈尊)が居られる世であれ、或は如来の滅後であれ、合掌し低頭して次のように口に唱えるのです。
 「私だれそれは、今日より仏身を成就するまで、仏に帰依いたします。仏の法に帰依いたします。仏の僧団に帰依いたします。仏である人間の中の尊き人に帰依いたします。仏の法である欲を離れた尊き人の教えに帰依いたします。仏の僧団である人々の中の尊き人々に帰依いたします。仏に帰依し終ります。仏の法に帰依し終ります。仏の僧団に帰依し終ります。」
  
遠く仏の悟りを志して、このように誓願を起こすのです。そうすれば、この身心は今も刹那刹那に消滅しているけれども、自らの法身(仏身)は必ず長く養われて、仏の悟りを成就することが出来るのです。

 

《まず、三宝に帰依することが仏道の始まりである、という話を、「禅苑清規」の中の一句をもとにして語ります。
 そしてその要点を「帰依仏法僧の功徳、かならず感応道交するとき成就するなり」と言います。
 「感応道交」を『提唱』は「仏の世界とわれわれ普通の人間の世界とが理屈ではなしに通じ合う状態」と言います。「世界」は余計な言葉のような気がしますが、およそそういうことなのでしょう。
 ではそれはどういうことかというと、例えば「香厳撃竹」、あるいは「讃岐の源太夫」(『発心集』第三・四話)のエピソードのようなことを言うのでしょうか。
 なお、「三宝」の三つ目は、普通は「僧」だと思いますが、ここの訳では「仏の僧団」となっていて、ちょっと聞き慣れない気がします。
 ちなみに『提唱』は「僧侶と尼僧と在家の男子と在家の女子と、この四種類の人々によって構成されておる仏道を勉強するための集団」と言っていて、これなら分かりますが、それでもどうして特に「集団」と言う必要があるのか、よく分かりません。
 「恭敬」する対象は、「集団」ではなくて、つねに個人ではないのだろうかと思うのですが、…。》


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2 執侍服労の日月

 かくのごとくの供養、かならず誠心(ジョウシン)に修設(シュセツ)すべし。諸仏かならず修しきたりましますところなり。その因縁、あまねく経律にあきらかなれども、なほ仏祖まのあたり正伝しきたりまします。
 執侍(シツジ)服労の日月、すなはち供養の時節なり。形像(ギョウゾウ)舎利を安置し、供養礼拝し、塔廟をたて支提(シダイ)をたつる儀則、ひとり仏祖の屋裏(オクリ)に正伝せり、仏祖の児孫にあらざれば正伝せず。
 またもし如法(ニョホウ)に正伝せざれば、法儀相違す。法儀相違するがごときは供養まことならず。供養まことならざれば、功徳おろそかなり。かならず如法供養の法、ならひ正伝すべし。
 令韜(レイトウ)禅師は曹谿の塔頭(タッチュウ)に陪侍して年月をおくり、盧行者は昼夜にやすまず碓米供衆(ツイメイクジュ)する、みな供養の如法なり。これその少分なり、しげくあぐるにいとまあらず。かくのごとく供養すべきなり。
 
 正法眼蔵 供養諸仏 第五
 
 建長七年 夏安居
(ゲアンゴ゙)の日
 弘安第二 己卯(ツチノトウ)六月二十三日 永平寺衆寮(ジュリョウ)に在って之を書写す。

【現代語訳】
 このような供養を、必ず真心で行いなさい。これは諸仏が必ず修めてこられたものなのです。その供養の因縁は、広く経や律に明らかに説かれていますが、さらに仏祖(仏と祖師)は、それを直接 正しく伝えてこられたのです。
 諸仏に仕える月日とは、つまり供養の日々のことなのです。仏像や舎利(仏の遺骨)を安置して供養礼拝すること、塔廟や霊廟を建てる作法などは、ただ仏祖の教えの中だけに正しく伝えられてきたのであり、仏祖の児孫(門弟)でない者はそれを正しく伝えていないのです。
 又、もし法の通りに正しく伝えなければ、作法は違ったものになります。作法が違えばその供養はまことのものになりません。供養がまことのものでなければ功徳は劣ります。ですから、必ず法の通りに供養の法を学んで正しく伝えていきなさい。
 令韜禅師は曹谿(六祖慧能)の墓塔に仕えて年月を送り、また盧行者(六祖慧能)は五祖弘忍のもとで、昼夜に休まず米を搗いて僧衆に供養したことは、皆供養の作法であったのです。これはその少しの例であって多くを取り上げることはできませんが、我々はこのように供養するべきなのです。
 

正法眼蔵 供養諸仏 第五

建長七年(1255)夏安居の日
弘安二年(1279)六月二十三日、永平寺衆寮に於いてこれを書写する。

 

《禅師の結びの言葉です。
 ここでは、「執侍服労の日月、すなわち供養の時節なり」という言葉が全てでしょうか。仏道において行う振る舞いは、全てが供養ということだ、という意味と思われます。それを伝えられてきているとおり、正しい作法で行わなければならない、逆にそれがまた仏道と言うことなのだ、ただし、その供養は、「かならず如法供養の法、ならひ正伝すべし」というものでなければならない、…。
 かくして修行は定められた型のとおりに、日夜繰り返されます。
 永平寺の日課は開山以来その形を変えることなく続けられていると聞きます。
 

次から、「帰依三宝」を読んでみます。》

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1 供養心六種

 次に、供養の心に六種有り。
一には福田無上心。生福田(ショウフクデン)の中の最勝なり。
二には恩徳無上心。一切の善楽(ゼンギョウ)は、三宝に依って出生(シュッショウ)す。
三には生一切衆生最勝心(ショウイッサイシュジョウサイショウシン)
四には如優曇鉢華難遇心(ニョウドンハツゲナングウシン)
五には三千大千世界殊独一心。
六には一切世間出世間、具足依義心(エギシン)。謂(イハ)く、如来世間出世間の法を具足したまひ、能く衆生の与(タメ)に依止処(エシショ)と為(ナ)りたまふを、具足依義と名づく。

の六心を以て、是れ少物(ショウモツ)なりと雖も、三宝に供養すれば、能く無量無辺の功徳を獲(エ)しむ。何(イカ)に況や其の多からんをや。」
 

【現代語訳】
 次に、供養の心には六種類がある。
一は、三宝(仏、仏の法、仏の僧団)は福田(福の収穫を与える田)の中で無上のものと観じる心。三宝は福を生じる田の中で最も優れたものである。
二は、仏の恩徳(恩恵)は無上のものと観じる心。すべての善き楽しみは三宝によって生まれる。
三は、三宝はすべての人々に最勝の心を生じさせると観じる心。
四は、仏には三千年に一度咲くという優曇華のように会い難いと観じる心。
五は、仏心は、全世界の中でかけがえのない一つの心であると観じる心。
六は、仏はすべての世間と出世間(出家)の人々のよりどころであると観じる心。如来(仏)は世間と出世間の法を熟知されていて、よく人々のためによりどころとなられていることを具足依義という。
 この六つの心によって、たとえ少しの物でも三宝に供養すれば、無量無辺の功徳が得られるのである。まして、その供養が多ければなおさらである。」と。
 

《供養するときの気持ちの持ち方、何を信じて供養ということをするのか、という点での区別でしょうか。
 『提唱』が、例えば「福田無上心」について、「供養ということが幸福を生む源泉(福田)であって、しかもその最高のものであるという気持ちを持って供養することである」と言っていて、こういうふうに解すると分かりやすく思われます。つまり、そういう気持ちを持って供養するというやり方がある、場合がある、と考えるわけです。
 二については、「恩徳無上心」は「供養によって得られるところの仏恩、あるいは功徳というものが最高であるという判断で供養をおこなうことである」とした上で、「一切のよい楽しみ(善楽。『全訳注』は「善と楽」としています)というものは、…三宝(仏・法・僧)の恩徳(先の言葉で言えば仏恩でしょうか)が最高のものであるということを確信して供養をする」やり方だと言います。
 三は、ここの訳は「三宝は」となっていますが、やはり「供養は」で、「すべての人々に最勝の心を生じさせると」信じて行うやり方。
 四は、優曇華の花のように滅多に見られるものではないから、「機会があったならば、ぜひ供養しようという気持ちを持」って行う。
 五は、広い世界の中で自分一人でも行おうと思って行う。
 六は、「依義」が「正しさに頼る」、「具足」が「欠けることがない」の意で、「この世の中の法則、あるいは仏道の法則、そういう正しさに完全に頼って生きていく、そういう気持ちで供養を行う」。
 一、二、三は、供養によってもたらされるものを信じる心、四、五、六は、供養ということがかけがえのないものであると信じる心、というようなことになりましょうか。
 と言われると、逐条的には一応なるほどと思いますが、やはりこの巻の初めの方で繰り返し語られてきた「有所得」の供養への批判に微妙に触れることになるのではないか、という気がします。供養は、求めるところのない、ひたすらなる無償の行為でなくてはならなかったのではなかったか、…。
 あ、いや、「観じる(信じる)」のだから、「求める」のとは違うとも言えますか。そこは大事なところかも知れません。》



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