伝燈録に云はく、
二祖毎(ツネ)に歎いて曰く、「孔老の教は、礼術風規なり、荘易(ソウエキ)の書は、未だ妙理を尽くさず。近く聞く、達磨大士、少林に住止(ジュウシ)せりと。至人(シジン)遠からず、当に玄境に造(イタ)るべし。」
いまのともがら、あきらかに信ずべし、仏法の振旦に正伝せることは、ただひとへに二祖の参学の力なり。
初祖たとひ西来せりとも、二祖をえずば、仏法つたはれざらん。二祖もし仏法をつたへずば、東地いまに仏法なからん。おほよそ二祖は、余輩に群すべからず。
伝燈録に云はく、
僧神光は、曠達(コウタツ)の士なり。久しく伊洛(イラク)に居して、群書を博覧し、善く玄理を談ず。
むかし二祖の群書を博覧すると、いまの人の書巻をみると、はるかにことなるべし。得法伝衣ののちも、むかしわれ孔老之教、礼術風規とおもひしは、あやまりなりとしめすことばなし。しるべし、二祖すでに孔老は仏法にあらずと通達せり。
いまの遠孫(オンソン)、なにとしてか祖父に違背して、仏法と一致なりといふや。まさにしるべし、これ邪説なり。
二祖の遠孫にてあらば、正受(ショウジュ)等が説、たれかもちゐん。二祖の児孫たるべくば、三教一致といふことなかれ。
【現代語訳】
景徳伝燈録(過去七仏からインド中国の祖師1701人の言行を収録。景徳元年成立。)には次のように記されている。
中国の二祖、慧可は常に嘆いていた。「孔子老子の教えは礼儀作法であり、荘子易経の書はまだ奥深い真理を尽くしていない。近頃聞くことには、インドから来た達磨大師が少林寺に住しているという。仏道に達した人は遠くではない。その玄妙の境地を学びに行かなければならない。」と。
今、仏道を学ぶ者たちは明かに信じなさい、仏法が中国に正しく伝わったことは、ただひとえに二祖慧可の、祖師に参じて学ぶ力のおかげであることを。
中国の初祖達磨が、たとえインドから渡って来たとしても、達磨が二祖慧可を得なければ、その仏法は伝わらなかったことでしょう。又、二祖がもし達磨の仏法を伝えなければ、今の東地中国にその仏法は無かったことでしょう。およそ二祖慧可は、我々とは比べものにならない抜群の人物なのです。
景徳伝燈録には、
「僧神光(慧可の名)は、心の広い人物であり、久しく伊川と洛水に住み、様々な書物を広く読んで、いつも玄妙な道理を論じていた。」とある。
昔、二祖が様々な書物を広く読んだことと、今の人が書物を読むこととは、きっと遥かに内容が異なるに違いありません。その二祖が、達磨の法を得てその衣を伝えた後にも、昔自分が孔子老子の教えを礼儀作法であると思ったことは誤りであったと言うことはありませんでした。このことから知りなさい、二祖は既に孔子老子は仏法ではないことを明らかにしていたのです。
今の二祖の遠孫が、どうして祖父に背いて仏法と孔子老子は一致すると言うのでしょうか。知らなければなりません、これは邪説なのです。
二祖の遠孫であれば、正受等の説を誰が用いるものでしょうか。二祖の児孫であるならば三教(仏教 儒教 道教)は一致すると言ってはなりません。
《初めの慧可の言葉は達磨に会う前のもので、その時彼は「孔老」、「荘易」を学んで、それに飽き足らなく思っていた、ということのようです。
孔子、老子は世の処し方を語っているというのは、これまでにも言いましたが、荘子、易経はそれよりワンランク上の扱いになっているようです。荘子は宇宙を語り、易経はこの世の目に見えない因果を語っているという点で、現世とは一線を画しているということでしょうか。
そして仏法はさらにその上を行くのだと、あの慧可が言っている、これは信用できると禅師は言います。》