孔子の書に生知者(ショウチシャ)あり、仏教には生知者なし。仏法には舎利の説あり、孔老、舎利の有無をしらず。ひとつにして混雑せんとおもふとも、広説の通塞つひに不得ならん。
論語に云はく、「生まれながらにして之を知るは上(ジョウ)なり、学んで之を知るは次なり、困(クル)しみて之を学ぶは又其の次なり、困しみて学ばざるは、民斯を下(ゲ)と為す。」
もし生知あらば、無因のとがあり。仏法には無因の説なし。四禅比丘は、臨命終(リンミョウジュウ)の時、たちまちに謗仏(ボウブツ)の罪に堕(ダ)す。
仏法をもて孔老の教にひとしとおもはん、一生のうちより謗仏の罪ふかかるべし、学者はやく仏法と孔老と一致なりと邪計する解(ゲ)をなげすつべし。この見(ケン)たくはへてすてずば、つひに悪趣におつべし。
学者あきらかにしるべし、孔老は三世の法をしらず、因果の道理をしらず、一洲(イッシュウ)の安立(アンリュウ)をしらず、いはんや四洲の安立をしらんや。
六天のこと、なほしらず、いはんや三界九地の法をしらんや。小千界をしらず、中千界をしるべからず。三千大千世界をみることあらんや、しることあらんや。
【現代語訳】
孔子の書に生知者(生まれながらに知っている者)という言葉がありますが、仏教には生知者という言葉はありません。仏法には舎利(仏の遺骨)の説がありますが、孔子老子は舎利の有無を知りません。これを一つに混同しようと思っても、その広説の通用は遂に得られないのです。
論語には「生まれながらにこれを知っている者は上等の人である。学んでこれを知る者は次の人である。行きづまってからこれを学ぶ者は、又その次の人である。行きづまっても学ばない者は、人として下等である。」とあります。
もし生まれながらに知っているというのであれば、因果を無視する咎があります。仏法には無因果の説はありません。そのために四禅比丘(四禅定を得たことで、阿羅漢を得たと思った比丘。)は、臨終の時に仏を謗った罪により、すぐに阿鼻地獄に堕ちたのです。
仏法を、孔子老子の教えと同じと思うことは、一生の内から仏を謗る罪が深いと言うべきです。仏法を学ぶ者は、仏法と孔子老子の教えは一致するという邪まな考えを早く投げ捨てなさい。この考えを蓄えて捨てなければ、遂には地獄、餓鬼、畜生などの悪趣(悪道)に堕ちることになるのです。
仏法を学ぶ者は明白に知りなさい。孔子老子は三世(過去現在未来)の法を知らず、因果の道理を知らず、一つの世界の安心立命を知らないのです。ましてや全世界の安心立命を知っているでしょうか。
六天(欲界の六天神)のことを又知らず、ましてや三界(凡夫の住む欲の世界、物の世界、心の世界。)や九地(九つの凡夫の境地)の法を知っているでしょうか。小千界(須弥山を中心とする天上界と地上界の一団を一世界として、それらが千集まった世界。)を知らず、中千界(小千界が千集まった世界。)を知らないのです。ましてや三千大千世界(中千界が千集まった世界を大千世界といい、小千界と中千界と大千世界を合わせて三千大千世界という。宇宙のこと。)を見たことがありましょうか、知っているでしょうか。
《ここの『論語』の言葉は季氏十六にあるものです。これだけを読むと、なるほどそうだ、と思ってしまいますが、確かに「生まれながらにして之を知る」(「之」は特に何を指すのではなく、要するに知者ということのようです)ということは、ないように思われます。
「舎利の説」というのは、『提唱』が「人が死んでも、その人の生涯における営々とした努力というものは非常に価値があるのであって、そのような価値のある生涯から残された遺骨というものについても、十分の尊敬を払わなければならない」という考え方を言うと言いますが、生前の努力が価値があるという以上に、自分の身につけたもののすべてが、そういう過去の人から受け継いだものだという意味で、過去の人に敬意を払うべきだという考え方をするのでしょうか。
孔子も「死しては之を葬むるに礼を以てし、之を祭るに礼を以てす」と言っています(『論語』為政)から、決して過去の人を軽んじていたわけではないでしょうが、得道において師から弟子へという関係を絶対的な要件として考える仏法の立場から見れば、「生知者」などという考え方は容認できないことであろうと思われます。
もっとも、孔子も、「生知者」を最上としてはいますが、それはものの順序として挙げただけで、言おうとするところは、その後の「学んで」以下に挙げた、学ぶということへの態度、学ぶことに喜びを感じるようでなくてはならない、ということだったのだろうと思われます。彼にとっては、学ぶということが大切なのであって、生まれながらにして知っている人は、もしそういう人がいるとしても、孔子はさしたる関心はなかったのではないでしょうか。》