とふていはく、「なんぞひとり正門とする。」
 しめしていはく、「大師釈尊、まさしく得道の妙術を正伝し、又 三世の如来、ともに坐禅より得道せり。このゆゑに正門なることをあひつたへたるなり。しかのみにあらず、西天(サイテン)東地の諸祖、みな坐禅より得道せるなり。ゆゑにいま正門を人天(ニンデン)にしめす。」
 

【現代語訳】

問う、「どうしてそれだけを正門とするのか。」
 答え、「大師釈尊は、まさに悟りを得る妙術として坐禅を伝えたのであり、また三世(過去現在未来)の如来(仏)も、皆共に坐禅によって悟りを得たのです。このために、坐禅が正門であることを人々に伝えるのです。それだけでなく、西天のインドや東地中国の祖師たちは、皆坐禅によって悟りを得たのです。そのために今、坐禅という仏法の正門を人間界天上界の人々に示すのです。」
 

《さて、どうして坐禅だけが「正門」なのかという問いです。
 ここでも、私としてはその内容において他より優れているという答えを期待するのですが、そういう答えではなく、伝統において正統なのだというものでした。釈尊から始まって歴代、またインドでも中国でも、「諸祖、みな坐禅より得道」して来たという実績があるのだから、これこそが正統なのだと言います。つまりはその諸祖を信じてその後を踏むべきだということのようです。

 なお「坐禅より得道」をここでは「坐禅によって悟りを得た」という訳になっていますが、『参究』が、そう解すると「坐禅が得道の手段方法であるという一面だけに終わる」として、「坐禅より得道」という言い方は、「悟りというものは、坐禅の中から出た功徳の一波瀾、二波瀾にすぎないという、ひびきを蔵している」と言います。
 坐禅は悟りのための手段ではなく、そういう物欲しげな気持ちで坐ってはならない、坐禅自体が悟りの姿なのだ、という考え方は、禅の世界では根強いようで、時々こういう議論が出てきます。

 細かく見ると、原文は、坐禅により得道、ではなく、「坐禅より得道」であって、そうすると、坐禅を通って得道に至った、というふうに読むことができます。

そこで、坐禅は悟りという世界の入り口であると考えてはどうでしょうか。入り口という言葉には、その世界の外の意味と内側の意味がありますが、すでに坐禅をしてるなら、それは一歩を踏み入れているわけで、実はすでにその世界の内部にいるということになりそうです。

得道の世界にも深浅があって、坐禅から(または坐禅において)「一波瀾、二波瀾」(「に過ぎない」かどうかは別にして)を経てより深い得道に至る、というふうに考えると、考えやすいような気がします。
 坐禅しながら妄想に襲われている姿と、同じ姿で「音のない交響楽」(第五章1節)に聞き入っているのとは、ただ深浅の差があるだけで、同じ世界にいるのだと考えたいのです。》