とふていはく、「いまわが朝(チョウ)につたはれるところの法華宗、華厳教、ともに大乗の究竟(クキョウ)なり。いはんや真言宗のごときは、毘盧遮那如来(ビルシャナニョライ)したしく金剛薩埵(コンゴウサッタ)につたえへて、師資みだりならず。
 その談ずるむね、即心是仏、是心作仏(サブツ)といふて、多劫(タゴウ)の修行をふることなく、一座に五仏の正覚(ショウガク)をとなふ、仏法の極妙(ゴクミョウ)といふべし。しかあるに、いまいふところの修行、なにのすぐれたることあれば、かれらをさしおきて、ひとへにこれをすすむるや。」

 

【現代語訳】

問うて言う、「今、我が国に伝わる法華宗や華厳宗は、共に大乗の教えの究極です。まして真言宗の教えは、毘盧遮那仏が親しく金剛菩薩に伝えたもので、師も弟子も正当なものです。

その説いている教えは、即心是仏(この心がそのまま仏である)、是心作仏(この心こそがそのまま仏である)と言って、多年の修行を経ることなく、即座に五仏(大日、阿閦、宝生、弥陀、不空成就)の悟りを得るといいます。これは仏法の中で最も優れたものと言うべきです。それなのに、今言うところの坐禅の修行は、何の優れたことがあって、それらを差し置いて、ひたすら勧めるのですか。」

 

《第四の問いです。

 前節の答えでは一部の堕落した僧たちを従来の仏徒の代表として取り上げて批判しているような言い方だったのですが、それだけではフェアではありませんから、ここで最も優れているとされる教えを挙げて坐禅の教えと対決させようという試みです。

 法華宗は天台宗のことですが、それと華厳教を並べておいて、「いはんや真言宗のごときは」といっているのは、当時、高野山真言宗が比叡山天台宗よりも一段上と考えられていたことを示すのでしょうか。逆の感じでちょっと意外な気がします。

 ともあれ、その真言宗の教えは「即座に五仏の悟りを得る」というもののようです。

『参究』が真言宗の「三密相応、即身成仏」について、「身に大日如来の印を結び、口に大日如来の真言を唱え、心に大日如来を念ずれば、即座にそれが大日如来である」ということと言います。

同書が言うように、この「辨道話」にも「もし人が、ひと時であっても三業(身と口と心の行い)に仏心印を示して、三昧に坐禅する時には、全世界が皆仏心印となり、あらゆる世界は悉く悟りとなる」とあった(四の3)わけで、これは大変よく似ています。

どう違うのでしょうか、というまことにもっともな問いです。》