しかあればすなはち、即心即仏のことば、なほこれ水中の月なり。即坐成仏のむね、さらに又かがみのうちのかげなり。ことばのたくみにかかはるべからず。
 いま直証(ジキショウ)菩提の修行をすすむるに、仏祖単伝の妙道をしめして、真実の道人(ドウニン)とならしめんとなり。
 また、仏法を伝授することは、かならず証契(ショウカイ)の人をその宗師(シュウシ)とすべし。文字をかぞふる学者をもてその導師とするにたらず、一盲の衆盲(シュモウ)をひかんがごとし。
 いまこの仏祖正伝の門下には、みな得道証契の哲匠をうやまひて、仏法を住持せしむ。かるがゆゑに、冥陽の神道もきたり帰依し、証果の羅漢もきたり問法するに、おのおの心地(シンチ)を開明する手をさづけずといふことなし。余門にいまだきかざるところなり、ただ仏弟子は仏法をならふべし。」

 

【現代語訳】
 ですから、即心即仏(心こそ仏にほかならない)という言葉は水面に映る月のようなものです。即坐成仏(坐ることそのものが成仏である)という教えは、更に鏡の中の姿なのです。言葉の上手に寄りかかってはいけません。
 今、直ちに悟りを証する修行を勧めるに当たって、仏や祖師方が相伝した坐禅の妙道を示して、真実の道人となっていただこうと思うのです。
 又、仏法の伝授には、必ず悟りを証された人をその師としなさい。経の文字を数える学者は、その導師とするに足りません。それは一人の盲人が多くの盲人を引き連れるようなものだからです。
 今、仏祖の正しい伝統の門下では、皆、悟りを得て悟りを証された優れた師を敬って、仏法を護持しています。そのために、冥界や陽界の鬼神もやって来て帰依し、悟れる羅漢も来て法を尋ねるのに対して、各々の心を明らかにする手だてを授けることが出来るのです。このことは、ほかの宗門では聞かれないことです。もっぱら、仏弟子は仏法を学びなさい。」
 

《だから、法の教えは何によらず水中の月、鏡の中の姿のようなもので、実物ではなく、いわば「一種の観念」(『講話』)なのであって、そういう言葉の美しさに関わってはならないのだと教えます。
 教え自体を頼ってはならないとなれば、あとは「ふとした時」の「一瞬ひらめき」(前節)をいかに捕らえるか、そういう機会をいかに多く持つか、ということが課題となるわけで、修行とはその機会に他ならないと考えることができます。
 そこでその「修行の真偽」(前節)が問題であって、「直証菩提の修行」、「直接に自己本来の面目を覚るところの修行」(『参究』)として、「仏祖単伝の妙道」すなわち坐禅ということを進めるのだ、ということのようです。
 「また」というのは、「言葉」に頼ってはならないし、また、ということでしょう。当然ながら、師とするのも、「学者」ではなくて、「悟りを証された人」でなければならない、と言います。
 これまでの「仏祖正伝統の門下」の人びとは、皆そうしてきたのだし、そこには「冥界や陽界の鬼神もやって来て帰依し、悟れる羅漢も来て法を尋ねる」のだと言います。これについては『参究』が、伝えられているらしい例を挙げています。》