しめしていはく、「むかしよりの諸仏、あひつぎて修行し証入せるみち、きはめしりがたし。ゆゑをたづねば、ただ仏家のもちゐるところをゆゑとしるべし、このほかにたづぬべからず。
 ただし、祖師ほめていはく、坐禅はすなはち安楽の法門なり。はかりしりぬ、四儀のなかに安楽なるゆゑか。いはんや一仏二仏の修行のみちにあらず、諸仏諸祖にみなこのみちあり。」
 

【現代語訳】
 教えて言う、「昔からの諸仏が、相次いで修行し悟りに入られた道は、熟知することが困難ですが、その理由を尋ねられれば、ただ仏祖の家門が用いてきたことが理由であると知りなさい。このほかに尋ねることは出来ません。
 但し、祖師は褒めて、坐禅は安楽の教えである、と言いました。推察するに、行住坐臥の四儀の中で安楽なためでしょう。まして坐禅は、一人二人の仏が修行した道ではありません。すべての仏や祖師たちが、皆この道を用いてきたのです。」
 

《「熟知することが困難」だというのは、諸仏が「証入」した道はいろいろあるという考え方のようで、『参究』は「どれほどあるのか」知りがたい、解していますし、『全訳注』も「一概にどれと定めていいがたい」と、選択の問題のように訳します。
 そうした中であえて「坐」を進める理由は、「ただ仏祖の家門が用いてきた」からだと言います。「家門」というのが解りにくいのですが、「仏家はただそのようにしてきたのだ」(『注釈』)というような意味なのでしょう。
 しかし、それでは、坐禅を唯一最上のものと勧めるのには、少し弱いでしょう。禅師としては、坐禅以外の道を認めていないように思います。
 そこで、ここの前半は、坐禅は「むかしよりの諸仏、あひつぎて修行し証入せるみち」であって、その所以を知ることは常人には難しい。ただ仏家が行ってきた道なのだから、それを信じて、他に目を向けてはならない、と解してはどうでしょうか。
 そうすると後半は、その所以は知りがたいが、全く根拠がないわけではなく、祖師が「坐禅はすなはち安楽の法門なり」と言っているではないか、しかも「諸仏諸祖」はみなこの道(坐禅)を通して「証入」しているのだ、というふうに解せます。
 普通に考えれば、仏家の中にいろいろな「証入」の道を経た人がいるが、我々の信ずる仏祖の系譜は皆坐ることによって「証入」されたのだから、それを疑ってはならない、「このほかにたずねるべきものではない」ということのようです。
 「祖師」の言葉については、『全訳注』が古註に「長蘆(かつて中国に存在した県名だそうです)の宗賾(ソウサク)禅師」の言葉とする説を挙げています。》