とうていはく、「この坐禅の行は、いまだ仏法を証会せざらんものは、坐禅辨道してその証をとるべし。すでに仏正法(ブツショウボウ)をあきらめえん人は、坐禅なにのまつところかあらん。」

【現代語訳】

問うて言う、「この坐禅の行は、まだ仏法を悟っていない者は、坐禅修行してその悟りを手に入れればよいでしょう。しかし、既に仏の正法を明らかにした人は、坐禅して何を待ち望むというのですか。」
 

《第七の問いです。
 まだ悟りを開いていない者は坐禅しなくてはならない、というのは解るが、すでに悟りを開いた人が、さらに坐禅しなくてはならないというのは、なぜか、と問います。
 戯れに、私が先に答えてみましょう。
 野球の王選手が全盛でホームランを打ちまくっていた頃、投手の投げてくるボールが止まって見えるので、後はそれをバットに乗せて運ぶだけなのだと語った、という逸話があります。
 しかし、かの王さんもその後次第に打てなくなりました。時速百四十キロで目の前と通過するものを止まっていると見るためには、バッターボックスに立つたびに、おそらく大変な精神力(それが実際にどういうものであるのか常人には測りがたいのですが)を必要とするのでしょう。
 悟りという状態は、いったんその境地に至れば、例えば座布団の上に座っているように、そのままいつまでも定着的にそこにいられるようなものではなくて、常に一過性の、まさに「状態」として、与えられるのではないでしょうか。
 しかし、一度その境地、その精神状態を経験した人は、一定のルーテイン的行動(例えば坐禅を組むこと)によって、比較的容易にその境地に入り込むことができる、それを定着させた人が覚者であろうと思われるのですが、そのためにはそれを維持するためのそれなりの継続的な修行(行動)が必要なのです、…というようなことではどうでしょうか。》