1 とうていはく、「わが朝の先代に、教をひろめし諸師、ともにこれ入唐伝法せしとき、なんぞこのむねをさしおきて、ただ教をのみつたへし。」
 しめしていはく、「むかしの人師(ニンシ)この法をつたへざりしことは、時節のいまだいたらざりしゆゑなり。」
 

【現代語訳】
 問うて言う、「わが国の先代に教えを広めた諸師は、皆、唐国へ渡って日本に法を伝えた時に、何故この坐禅を差し置いて、専ら教えだけを伝えたのですか。」
 教えて言う、「昔の師となる人が、この坐禅の法を伝えなかったのは、まだ時節が来ていなかったからです。」
 

《第八の問いです。『参究』は「この問答は解説する余地がない」と言いますが、素朴でいい質問です。あなたはそんなにも坐禅を大切なものとおっしゃるが、これまでの諸師はどうしてそんな大事なことを伝えなかったのですか。ちょっと皮肉に聞こえる問いです。
 もちろん禅師自身が設定した問いですから、皮肉ではなく、あるとき師自身が自分に問うた問いであるのでしょう。こんな大事なことを、どうして先人は伝えなかったのだろう、それは自分が伝えようとしていることは、本当に間違いないことなのか、という懸念でもあったかもしれません。
 それに対する答えは、先人の時代は、まだその機が熟していなかったのだ、というものでした。

 昔、こんなエピソードを聞いたことがあります。太平洋の真ん中の小さな島で村の集会があった時、たまたま訪れていた日本人が見学に行ってみると、予定された時間になってもなかなか人が集まらず、会が始まりません。来ている人も格別不満気な様子もなかったそうです。不思議に思って、長老に、どうしてこうなのかと尋ねると、まだ会を始める機が熟していないということなのだ、という答えだったそうでえす。
 時計の針でことが進むのではなく、全ての機運が寄り集まった時が、ことを始める時なのだ、という考え方だったのです。
 「歴史的事件に偶然はない」というのはF・D・ルーズベルトの言葉だそうですが、禅師と禅の出会いも、たまたま禅師という人が現れたから起こったことではなくて、無数の縁が重なりあった結果のことだったということであり、また日本の人々の中に、そういう教えを受け入れようという機運もあり、一方で、それまで先師の人びとは、禅とどこかですれ違ってしまったのということでしょうか。
 『講話』はここで、「仏教」と「仏法」、教えと法ということを語っています。「仏法というのは、言葉を通して伝えられたいわゆる仏教と根本的に違うもので、法そのものは生のままで生きている。…(道元は)それを伝えている、…。」
 仏教は早く伝わりましたが、仏法はまだ伝わっていなかった、それを禅師が初めて伝えたのだ、という意味です。
 戦後の日本に、民主主義は伝わりましたが、民主精神は、さて、どうなっているのか、などと考えてしまいます。》

2 とうていはく、「かの上代の師、この法を会得せりや。」
しめしていはく、「会
(エ)せば通じてん。」

【現代語訳】

問うて言う、「その昔の師は、この坐禅の法を会得していたでしょうか。」
教えて言う、「会得すれば伝えていたでしょう。」
 

《続けて第九の問いです。
 それに対する答えは自信に溢れています。そして自らの責任の自覚と決意を感じさせます。》