とうていはく、「あるがいはく、生死(ショウジ)をなげくことなかれ、生死を出離するにいとすみやかなるみちあり。いはゆる、心性(シンショウ)の常住なることわりをしるなり。
 そのむねたらく、この身体は、すでに生(ショウ)あればかならず滅にうつされゆくことありとも、この心性はあへて滅することなし。よく生滅にうつされぬ心性わが身にあることをしりぬれば、これを本来の性とするがゆゑに、身はこれかりのすがたなり、死此生彼(シシショウヒ)さだまりなし。心はこれ常住なり、去来(コライ)現在かはるべからず。かくのごとくしるを、生死をはなれたりとはいふなり。

 

【現代語訳】

問うて言う、「ある人が言うには、生死流転を嘆くことはない。生死流転を離れるのに大層早い方法がある。いわゆる、心の本性は変わることなく常に存在するという道理を知ることだと。
 その道理とは、この身体は、まさしく生まれれば必ず滅して行くものであるが、この心の本性はまったく滅しない。この生滅に動かされない心の本性が、我が身にあることを知れば、これを自分の本来の性とするので、身は仮の姿であり、ここに死して彼の所に生まれるという決まりはない。心は常に存在していて、過去 未来 現在に変わることはない。このように知ることを、生死流転を離れたと言うのである。

 

《第十の問いで、この章全部をかけての長い質問です。

テーマは肉体の有限と精神の永遠ということのようで、根本的というか、基礎的というか、あるいは青臭いというか、ともかくも、いくらかでもものを考えるような若者で、この問題を一度も考えなかったという人はないのじゃないかと思われる問題ではあります。

肉体は有限だが、「心性」(「不変の心体、つまり、心の本質とでもいうべきもの」・『全訳注』)は不滅なのであって、人間の本質はそちらにあると考えれば、どこで滅び、どこに生まれるか分からない肉体は、問題にするに足りない、そのことに気がつくことを、生死を離れ、惑いから離れたというのである、…。

死此生彼さだまりなし」は「この世界に死んで次の世界に生まれる」(『講話』)ことを言うようです。生まれ変わったときに、犬であるか猫であるか、あるいはまた首尾よく(?)人間であるか、それは分からないままだが、「心」は変わらないで、受け継がれる、というようなことを考えているようです。

ところで、「むねたらく」というのはどういう言葉なのでしょうか。

「問ひたらく」などのように動詞に「たらく」が付くことはあります。これはもとは「問ひ・たる・あく」(アクは『所』とか『事』という意味の名詞とみられる・(『辞典』)で、「たるあく」が詰まったものでしょう。

ここの「むね」は名詞「旨」だと思われますが、それに準じたものでしょうか。