このむねをしるものは、従来の生死ながくたえて、この身をはるとき性海(ショウカイ)にいる。性海に朝宗(チョウソウ)するとき、諸仏如来のごとく、妙徳まさにそなはる。
 いまはたとひしるといへども、前世の妄業(モウゴウ)になされたる身体なるがゆゑに、諸聖(ショショウ)とひとしからず。いまだこのむねをしらざるものは、ひさしく生死にめぐるべし。
 しかあればすなはち、ただいそぎて心性の常住なるむねを了知すべし。いたづらに閑坐して一生をすぐさん、なにのまつところかあらん。かくのごとくいふむね、これはまことに諸仏諸祖の道にかなへりや、いかん。」
 

【現代語訳】
 この道理を知る者は、今までの生死流転が長く絶えて、この身が終わる時には、本性の海に入る。その本性の海に集まる時には、諸仏如来のように優れた功徳がまさに具わるのである。
 今は、たとえこれを知ったとしても、前世の妄業によって変えられた身体なので、聖人たちと同じではない。まだこの道理を知らない者は、長く生死を巡るであろう。
 このようであるから、急いで心の本性の常住である道理を知りなさい。空しく坐禅して一生を過ごして、何の得るところがあろうかと。この言葉の道理は、実に仏や祖師方の道に叶っているであろうか。」

 

《「性海」は「性とは存在の本質である。そのありようを海にたとえて性海という」(『全訳注』)のだそうです。
 また、朝宗は「『朝』は春に、『宗』は夏に天子に謁見する意」(コトバンク)で、そこから「多くの河川がみな海に流れ入ること」の意味になるようで、ここはその意味です。
 先のように考えて生死の惑いを離れれば、死んだときに「本性の海」(『注釈』によれば「仏性の海」、つまり悟りの世界というようなことでしょうか)に入れるという考えかたがあると言います。

 そこまでは一応分かる気がしますが、その後が不思議な考え方で、現世に生きている間に生死の惑いを離れても、身が汚れているのでそういう「仏性の海」に入ることは出来ず、死後を待つしかないが、そのとき、そのことに気がついていなければ、永遠に生死の惑いの中に生きるしかないのだ、というふうに考えるようで、何か、保険を掛けておく、といった趣があります。仏法にはなじまないような気がしますが、具体的にそういう考えをする教えがあるのでしょう。いろいろなことを考える人があるものです。
 そういうわけで、死ぬまでに生死の惑いを離れておかなければ、永遠に、来世においてもその惑いの中に居続けることになるから、「心の本性の常住である道理」に一刻も早く目覚めなければならない、坐禅などして時間を浪費していてはならないのだという人がいるが、それについてはどう考えるのですか。これが第十の問いです。
 『参究』は「この問いも解説するにはおよぶまい。このような見解を『心常相滅の邪見』というのである」と語気強く一蹴します。
 この問答について、『道は』は「本覚思想批判」と呼んでいました(第七章)。が、ともかくも禅師の答えを見てみましょう。》