しめしていはく、「いふがごとし。わがくにの人、いまだ仁智あまねからず、人また迂曲なり。たとひ正直の法をしめすとも、甘露かへりて毒となるぬべし。名利にはおもむきやすく、惑執とらけがたし。

【現代語訳】
 教えて言う、「あなたの言うとおりです。我が国の人は、まだ情けや智慧が行き渡らず、人の心はねじけています。たとえ正しい法を教えても、甘露はかえって毒となることでしょう。名利には向かいやすく、迷執からは離れ難いのです。
 

《こんなに簡単にそのとおりだと言ってしまわれても困るという気がしますが、しかたがありません。
 それにしても、「仁智あまねからず」はまだいいとして、「人また迂曲なり」というのは、平安文化のどこにそれがあるのか、と思います。
 『講話』は、「北条執権が暴威をふるい、皇室の御稜威も甚だ微弱な状態になっていた」ことを嘆いての言葉だとしていますし、あるいは延暦寺、建仁寺の僧たちの堕落を言っているとも考えられますが、ここの言い方からは、そういう社会の一部の問題とするよりも、全体的な文化や生活の水準の低さを嘆いていると理解する方がいいように思われます。
 あの華麗な平安文化も、禅師の目には、せいぜい大陸文化の亜流くらいにしか見えていなかったのでしょうか。
 あるいは、それはそれで一つの文化であるとしても、それはまったく、わずか千人ほどで構成された貴族社会内部だけのものであって、禅師の目は、より多く、それとはまったく関わりのないところで日々を生きていた、たとえば光源氏と夕顔の逢瀬の早朝の場面に隣室でぼそぼそと対話する人々のような、庶民の方に向いており、いたということでしょうか。
 禅師のように純一な生き方をした人から見れば、あるいは普通の人々の生き方はここに語られるように見えるのかも知れません。
 以前、将棋の田中寅彦九段が、素人のおじさんたちが集まってわいわいガヤガヤ将棋を指して遊んでいるのを見て、将棋にはこんな楽しみ方もあるのかと驚いた、という話をしていました。そこで指される一手々々は彼から見ればあり得ない手であり、また振る舞いもしばしばあり得ないマナーであったことでしょうし、さらに、そういう意味不明の手を指しながら、それに一喜一憂している姿は、幼時から真剣に一筋にその道に打ち込んできた彼には、到底理解不能なものだったことでしょう。
 もちろん宋国でも庶民はそういう人たちだったのですが、禅師がかの国で接したのは、選りすぐりのエリートたちだけだったでしょうから、そこが高貴な国に見えるのも無理ありません。》