得処(トクショ)かならず自己の知見となりて、慮知にしられんずるとならふことなかれ。証究すみやかに現成すといへども、密有(ミツウ)かならずしも見成(ゲンジョウ)にあらず。見成これ何必(カヒツ)なり。
 

【現代語訳】
 ですから、会得したことが必ず自己の見識となって、心に知られるものと思ってはいけません。究極の悟りは速やかに成就するのですが、その親密な悟りは必ずしも現れるものではありません。それは現れなくてもよいのです。
 

《『参究』が、初めに単語の意味を列挙しています。それによると、「慮知」は人間の理性的認識能力、「証究」は、修し証する実践、「密有」は親密にして秘密の本証、「何必」は、「何ぞ必ずしも…ならん」で、それではない、つまり言葉では表し得ない真実絶対の事実、という意味のようです。
 さてそこで、前節に続けて、悟りを得たと言っても、ではそれで何が解ったのかということが自分で理解できるわけではない、と言います。
 何事でも本当の名人は自分を名人と思わず、まだまだと思っている、という話と同じように思えます。
 あるいは、究極の技術の先にある、名人自身にも曰く言いがたい、その道の「コツ」のようなものでしょうか。
 ただ、名人の場合は、結局は、常人には見えないものが見えてくる、ということなのでしょうが、悟りということの場合は、魚は水とともに、鳥は空とともに「爾かある」状態で充足しているように、人もまたその充足の中にあって、悟りの意識を持たず、したがって自らそれに気づかない、というようなことでしょうか。
 「証究すみやかに現成す」以下については、『哲学』が、「仏道の真理は現成する。現成する真理は、現成した限りにおいて現前しているが、真理そのものは不特定である。『何必』とはそれである」と言って、「否定神学というものがあって、究極の真理はただ否定語を以て現すよりほかはないと云」う、と結びます。
 先に、「一花開きて、天下春」を挙げました(1節)が、その花が開く前は、「冬」だったのではなくて、春ではない何ものかだった、というような考え方ではないか、と思ってみます。そういうものを把握することを悟りという、と考えているのではないか、…。》