しかあるを、長劫(チョウゴウ)に修行作仏(サブツ)するは即心是仏にあらずといふは、即心是仏をいまだ見ざるなり、いまだしらざるなり、いまだ学せざるなり。即心是仏を開演する正師(ショウシ)を見ざるなり。
 いはゆる諸仏とは、釈迦牟尼仏なり。釈迦牟尼仏、これ即心是仏なり。過去現在未来の諸仏、ともにほとけとなるときは、かならず釈迦牟尼仏となるなり。これ即心是仏なり。
 正法眼蔵 即心是仏
 
 爾時
(コノトキ) 延応元年(一二三九年)五月二十五日、雍州(ヨウシュウ)宇治郡観音導利興聖宝林寺に在って衆(シュ)に示す。
 于時(トキニ)寛元三年乙巳(キノトミ)(一二四五年)七月十二日、越州吉田県 大仏寺侍者寮に在って之を書き写す。               懐弉(エジョウ)
 建治三年(一二七四年)夏安居(ゲアンゴ)、之を書き写す。
 

【現代語訳】
 そのようであるのに、永劫に修行して仏になるというのは、即心是仏ではないと言う者は、まだ即心是仏を見ていないのであり、まだ知らないのであり、まだ学んでいないのであり、まだ即心是仏を説く正法の師に会っていないのです。
 いわゆる諸仏とは、つまり釈迦牟尼仏です。釈迦牟尼仏は即心是仏の仏です。ですから、過去 現在 未来の諸仏が皆 仏になる時には、必ず釈迦牟尼仏になるのです。これが即心是仏です。
 

《「即心是仏」を人は生まれながらにして仏であると解している人たちは、修行して初めて仏となるのだということを理解しなかったのでしょう、ここはそれに対する諫めです。幸いにして「一刹那」に得道する人もあれば、長い修行の果てにたどり着く人もある、あるいは、得道は「一刹那」でも、そこに至るのに前に長い修行の期間を要することもある、ということでしょうか。
 そのようにして得道した人は、原初の仏・釈迦牟尼仏が見たのと同じ光景を見ているのです。釈迦牟尼仏は、そこにいるままにその全存在が仏であり、後世の諸仏もその点では同じである、そうなっていくこと、それが「即心是仏」なのである、…。

 次回から、「渓声山色」巻を読んでみます。