徹地の堂奥は、初心の浅識にあらず、ただまさに先聖(センショウ)の道をふまんことを行履(アンリ)すべし。このとき、尋師訪道するに、梯山航海あるなり。
 導師をたづね、知識をねがふには、従天降下(コウゲ)なり、従地涌出(ユシュツ)なり。その接渠(セッコ)のところに、有情に道取せしめ、無情に道取せしむるに、身処(シンジョ)にきき、心処(シンジョ)にきく。
 若将耳聴(ニャクショウニチョウ)は家常(カジョウ)の茶飯なりといへども、眼処聞声(ゲンジョモンショウ)これ何必不必なり。
 

【現代語訳】
 大悟徹底の所は、初心の浅い見識で窺うことは出来ません。ですから、もっぱら先の仏祖の道を踏んで修行しなさい。この時に、師を尋ね道を尋ねて、山を越え海を渡って行くのです。
 そうして導師を尋ね、師を望むなら、師は天から降りてくるのです。地から涌き出てくるのです。その彼を教え導くために、衆生に法を説かせ、石や木に法を説かせて、それを身体で聞き、心で聞くのです。
 それをもし耳で聞けば、日常のありふれた事ですが、眼でその声を聞くということも無くはないのです。
 

《仏道の奥深い境地は、初心のものが考えるようなものではない、それはただ先哲の後を踏むことによってしか得られないものである、…。
 「尋師訪道するに、梯山航海あるなり」は『全訳注』の「その時に師を訪ね道を問えば、山に攀じ、海を渡ることもできるのである」という解釈がいいように思います。「山」「海」は具体的な道程を言うのではなく、「徹地の堂奥」を指すと考えるわけです。
 そのように本気で師を求めれば、必ずや自然と師に巡り会えるのだ、…。
 「渠」は彼で、ここの訳は修行者を指すという解釈(『哲学』も同じ)ですが、現れた師を指すという訳もあります。
 「接渠」、その人に接するとき、その師は、修行者をして有情無情のものから真理を感じ取らせ、修行者はそれを体全体で、心で聞くのだ、…。
 「従天降下」「従地涌出」は、「導師」がそのように現れるということでもあり、また「道取」すべき真実は、そのように彼の前に現れる、ということでもあるでしょう。
 「若将耳聴」は、訓読するなら、「もし将に耳をもって聴かんとすれば」とでも読むのでしょうか。
 「眼処聞声」は眼処に声を聞く、と読み、「何必不必」は、『全訳注』が「『なんぞ必ずしも必せんや』というほどの句である」として「必ずしも誰にでもできることではない」と訳しています。
 その真実は、決して眼で見、耳で聞くのではない、目で聞き、耳で見ることもあるのだ、つまり全身で感じるのだ、ということなのでしょう。そういうことは、初心の者にはもちろん難しいことで、「導師」の導きによって初めて可能なことなのだ、…。
 話がやっと初めの「谿声山色」の本題に帰ってきたような気がします。