見仏にも自仏他仏をみ、大仏小仏をみる。大仏にもおどろきおそれざれ、小仏にもあやしみわづらはざれ。
 いはゆる大仏小仏を、しばらく山色谿声と認ずるものなり。これに広長舌あり、八万偈あり、挙似迥脱(コジケイダツ)なり、見徹独抜なり。
 このゆゑに、俗いはく、「弥高弥堅(ミコウミケン)なり。」先仏いはく、「弥天弥綸(ミリン)なり。」
 春松の操あり、秋菊の秀ある、即是なるのみなり。
 

【現代語訳】
 仏を見ることにも、自らの仏や他の仏を見、大きな仏や小さな仏を見ることがあります。大きな仏を見ても驚き恐れてはいけません、小さな仏を見ても怪しみ悩んではいけません。
 いわゆる大きな仏や小さな仏を、暫く山色や谿声に認めるのです。これらに仏の説法があり、八万の偈文があるのです。その説法は全く自在であり、その悟りは独り抜きんでています。
 このために、世俗の賢者は、「これを仰げばますます高く、これを穿てばますます堅い。」と言い、先の仏祖は、「空一面にあまねく行き渡り、あまねく治まる。」と説いています。
 春の松に変わらぬ緑の操があり、秋の菊に香り高い花が咲くことも、このような仏の説法なのです。

 

《初めの部分は『哲学』の解説が完璧だと思われます。
 「見仏とは、仏に相見することであるが、仏にまみえることができるのは自己も仏になっている時である。故に見仏は自己に仏心の現成することを先決とする。かくて自仏を見て、はじめて他仏を見る道理であるが、しかしすでに仏心現成の世界においては、自他の区別はなく、自他不二である。同じ道理で、大仏を見、小仏を見るが、大仏を大仏たらしめている真理も、小仏を小仏たらしめている真理も真理としては一つなのであるから、大小の区別にとらわれてはならぬ。」
 言わずもがなのことですが、「仏に相見する」とは、悟りを得ることで、例えば東坡が渓声山色に出逢い(第一章2節)、香厳が竹の音を聞いた(第四章1節)ようなことを言います。その大小とは、捉え得たものの奥行きの深さ、それはまたそれを得たことによって彼に内なる変革を迫る圧力の大きさでもあろうと思われますが、そういうことを言うのではないでしょうか。
 私はここでも、かの城山からの風景に目覚めた画家(第六章2節)のことを思い、また『発心集』第三、「讃州源太夫、俄に発心、往生の事」の話を思い出しています。
 「挙似」は挙示、「迥脱」の迥は遙かで、遙かに他を超脱するの意(『哲学』)、「見徹」は見抜く意と思われ、「独抜」は「他に抜きんずること」(同)で、『全訳注』が、「挙似迥脱」は「対他」、「見徹独抜」は「対自のことであると言えよう」と言います。
 「春松」、「秋菊」は、渓声山色に同じでしょう。ちなみに、「菊」の「きく」という読み方は音読みなのだそうです。