かくのごとく懺悔すれば、かならず仏祖の冥助(ミョウジョ)あるなり、心念身儀発露白仏(ホツロビャクブツ)すべし。発露のちから、罪根をして銷殞(ショウイン)せしむるなり。
 これ一色(イッシキ)の正修行(ショウシュギョウ)なり、正信心なり、正信身なり。
 正修行のとき、谿声谿色、山声山色、ともに八万四千偈ををしまざるなり。
 自己もし名利身心を不惜すれば、谿山また恁麼(インモ)の不惜あり。
 たとひ谿声山色 八万四千偈を現成せしめ、現成せしめざることは、夜来なりとも、谿山の谿山を挙似(コジ)する尽力(ジンリキ)未便ならんは、たれかなんぢを谿声山色と見聞(ケンモン)せん。

正法眼蔵 谿声山色
 爾時(コノトキ)延応(エンノウ)庚子(カノエネ)結制後五日、観音導利興聖宝林寺に在(ア)って衆(シュ)に示す。
 寛元癸卯(ミズノトウ)結制前 仏誕生の日、同寺に在って侍司(ジス)(コレ)を書き写す。  懐弉
 

【現代語訳】
 このように懺悔すれば、必ず仏祖の隠れた加護があるのです。ですから、自ら心に念じ身を呈して、すべてをさらけ出して仏に申し上げなさい。この懺悔の力は、罪悪の根本を滅ぼしてくれるのです。
 これが純一な正しい修行であり、正信の心であり、正信の身体というものです。
 正しい修行が行われる時には、谿流の声や姿が、また山の声や姿が、皆ともに八万四千の偈文を惜しみなく説くのです。
 自己が、もし名利や身心を惜しまなければ、谿流や山もまた、法を説くことを惜しまないのです。
 たとえ谿声や山色が、八万四千の偈文を説いたり、説かなかったりしたのは、東坡居士が仏道を悟った昨夜の事であったとしても、谿流や山に、谿流や山のことを語る力がなければ、誰がおまえのことを、谿声や山色であると教えてくれたでしょうか。
 

《「かくのごとく」とは前章3節にあった「大旨」を指すわけですが、考えてみると、あれは普通私たちが懺悔という言葉で表すものとは少し異なっていたようです。懺悔は自分の悪行を神仏に告白することだと思いますが、あれは、願い、祈りと言うべきものです。
 一所懸命に誠心を込めて祈れば、必ず見えない力での助けがあるのだから、「心に思い、身にいとなみ、口にいいあらわして、仏に白(もう)すがよい」(『全訳注』)、きちんと言い表すことが「罪根」を消し去ってくれて、渓声山色はその真理を語ってくれるだろう。
 「たとひ」はとうぜん「夜来なりとも」に係るのでしょうが、解りにくく思われます。諸注、定かでない中で、『全訳注』が、渓声山色がその真理を語るにしても語らないにしても、あるいは夜であってもなくても、と「たとひ」を両方にかかるとして訳しています。そういうことのように思われますが、「夜」がどういう意味を持つのか、ちょっと意味がわかりません。
 およその意味だけ考えれば、渓声山色が八万四千偈を語るか語らないかということは問題ではなくて(ということは、常に語っているに違いないのであって、ということでしょう)、大切なことはお前がその声を聞く(渓山を渓山たらしめる)力量があるか、ということなのだ、それができなければ、誰もお前のことを道を得た者と認めることはないだろう、だから、先に言ったように「懺悔」を、「いまだ、いまだ」(前節)という思い込めた祈りをしなければならないのだ、というようなことではないかと思われますが、どうなのでしょうか。
 

 明日から、「袈裟功徳」巻を読んでみます。
 

谿声山色おわり。