世尊 智光比丘に告げて言はく、
「法衣(ホウエ)は十勝利(ジュッショウリ)を得るなり。
 一つには、能く其の身を覆うて、羞恥を遠離(オンリ)し、慚愧を具足して、善法を修行す。
 二つには、寒熱および蚊蟲(ブンチュウ)悪獣毒蟲(ドクチュウ)を遠離して、安穏に修道(シュドウ)す。
 三つには、沙門出家の相貌を示現(ジゲン)し、見る者 歓喜して、邪心を遠離す。
 

【現代語訳】
 釈尊は、僧の智光に教えて言われました。
「袈裟を身に着ければ、十の優れた利益を得ることが出来る。
 一つには、その身を覆うことで恥ずかしい思いをせず、慚愧の心が具わって善き法を修行することが出来る。
 二つには、暑さ寒さ、また、蚊や悪獣、毒虫などから身を守り、安穏に道を修めることが出来る。
 三つには、出家僧の姿を現わすことで、それを見る者は歓喜して邪心が無くなる。
 

《ここから次章の終わりまで、原文は漢文で、『心地観経』からの引用だそうです。
 以下、袈裟の功徳(効用)の十箇条が列挙されるわけですが、各条、いろいろなことを思います。
 一では、「羞恥」とは何を指すのか、単に裸を恥じるというのなら、特に袈裟である必要はなさそうですし、そのために「身を覆う」ことが大切なら、第七章「搭袈裟法」にありましたが、右肩が丸出しというのは頷けません。
 また「慚愧」は何に対する慚愧なのか。『提唱』は「様々の悪を恥じる」と言いますが、前が裸を隠すという現実的なことであり、次の二、三も大変現実的な効用ですので、その間にあるここがそういう抽象的な悪の話であるのは変に思われます。いや、逆に、私たちは自らの悪を、蚊に刺されるのと同じくらいに実感として生々しく感じ取らなければならない、ということでしょうか。
 また、二では、ここにいう効用を考えるなら、やはり右肩は丸出しだというのは、むしろ不適切ではないかと思ってしまいます。
 三もまた現実的効用で、袈裟をつけると、馬子にも衣装で、坊さんらしい姿になって、見る人が心惹かれ、その姿に感銘して悪い心を捨てる、ということのようですが、少なくとも、この三条のためには、特に「正伝」の袈裟でなければならないという必要はなさそうです。
 いや、けちをつけておもしろがっているわけではありません。誰もがすぐに疑問に思ってしまうようなそういうことを、どういうふうに考えているのか、そしてこの十箇条はどういう論理で構成されているのか、と考えているのです。
 ただ思いつきを羅列したら十になったというのではなく、きっと何か思想、哲学が、あるいはなにか暗示的な意味が、あるのではないかと思うのですが。》