八つには、身に袈裟を著せば、罪業(ザイゴウ)消除し、十善業道(ゴウドウ)、念々に増長す。
九つには、袈裟は猶良田の如し、よく菩薩の道(ドウ)を増長するが故に。
十には、袈裟は猶甲冑の如し、煩悩の毒箭(ドクセン)、害すること能はざるが故に。
智光当(マサ)に知るべし、是の因縁を以て、三世の諸仏、縁覚声聞、清浄(ショウジョウ)の出家は、身に袈裟を著し、三聖(サンショウ)と同じく解脱の宝牀(ホウショウ)に坐す。
智慧の劔を執り、煩悩の魔を破り、共に一味の諸涅槃界に入る。
【現代語訳】
八つには、身に袈裟を着ければ、悪しき行いは除かれて、十の善き行いが一念一念ごとに増していくのである。
九つには、袈裟は多くの収穫を与える良田のようなものである。これを身に着ければ、菩薩の六波羅蜜(布施 持戒 忍辱 精進 禅定 智慧)の道をよく増していくからである。
十には、袈裟は甲冑のようなものである。身に着ける人を、煩悩の毒矢で害することは出来ないからである。
智光よ、知りなさい。袈裟にはこのような優れた因縁があるから、過去 現在 未来の諸仏や縁覚(縁起の法を観じて覚る者)、声聞(仏の説法を聞いて悟る者)などの清浄な出家者たちは、袈裟を身に着けるのであり、この功徳によって、三聖(釈迦牟尼仏、文殊菩薩、普賢菩薩)と同じように解脱の宝座に坐し、智慧の剣を取って煩悩の魔を破り、皆共に平等の涅槃の世界に入ることが出来るのである。
《八は、また七と同じことのように見えます。「罪業消除し」は「煩悩を断じて」とほぼ同じでしょう。ただ、「十善業道」(「不殺生、不偸盗、不邪淫、不妄語、不両舌、不悪口、不綺語、不貪欲、不瞋恚、不邪見」・『読む』)は一歩進んだ実践を言っているとも言えます。
九は四から八までの総まとめのような言い方ですが、「菩薩の道」は前の「十善業道」よりもまた一歩進んでいるのかもしれません。
また別に言えば、前項までが袈裟をつけた当人の意識の問題であったのに対して、この二項は、袈裟自身の持つ力を言っているとも見えます。
最後の十は、あまり最後らしくなく、また六、七に返った感じです。
総括してみると、結局は袈裟を「尊重敬礼」することがすべての始まりであって、それがあれば、あとはいわば自動的に展開していくといった趣で、とすれば、十はその総まとめとして復活してくると言えます。
とは言え、それは、そのように言えば言えるという程度の全体像で、たとえば、第十条は、単なる比喩であって、新しい項目として挙げるに足るものではないように見えます。
挙げられた一つ一つはまことにもっともな、さもありなんと思われる項目ですが、私などには、どうも無秩序に挙げられた感がしてなりません。
この書の中でこのように箇条的に挙げられた話は、しばしばそうなのですが、その一貫性をもう少し分かりやすく語ってもらえたら、という思いを拭えません。》