第十二祖馬鳴(メミョウ)尊者、十三祖のために仏性海(ブッショウカイ)をとくにいはく、
「山河(センガ)大地皆依建立(カイイコンリュウ)
 三昧六通由茲発現(ユウジホツゲン)
 しかあればこの山河大地、みな仏性海なり。皆依建立といふは、建立せる正当恁麼時(ショウトウインモジ)、これ山河大地なり。
 すでに皆依建立といふ、しるべし、仏性海のかたちはかくのごとし、さらに内外中間(ナイゲチュウゲン)にかかはるべきにあらず。
 

【現代語訳】
 第十二祖馬鳴尊者は、十三祖迦毘摩羅(カビモラ)のために、仏性海について次のように説いた。

「山河大地は、皆仏性海によって建立している。
  諸仏の禅定、六つの神通力も、仏性海によって出現する。」と。
 このように、この山河大地は皆仏性の海なのです。「皆仏性海によって建立している」とは、仏性によって建立しているまさにそのものが、山河大地であるということです。
 すでに「皆仏性海によって建立している」というのですから、仏性海の姿はこのように山河大地であり、それは決して内外中間には関係しないことを知りなさい。
 

《「仏性海」は「仏性の広大無辺なことを海になぞらえている」(『読解』)ということですから、つまりは仏性を説いて聞かせたということのようです。
 馬鳴の言葉について、禅師が説きます。
 馬鳴が言ったように、山河大地はみな、仏性によって建立されている、「ありとあらゆる事物・現象が、いずれも実体的なものではなく、みな相互依存関係によって成り立っている」(同)、ということは、一つの山、一つの河が仏性を示しているのではなく、それらが全体としてそのようにあることが仏性を示している、というようなことでしょうか。
 『哲学』は「広大無辺の仏性が、形をとったら山河大地なのである」と言います。
 そういうことだから、この山河大地はすべて仏性の世界なのだ、「『皆依建立』というのは、その建立している正にその時、建立しているということわりが、そのまま山河大地をなしているのである」(『哲学』)」…。
 先に「皆依建立」と言ったが、「仏性海」とはそういうかたちであるものであって、決して、仏性が内にあってそれを核として、外形としての山河大地があるといった「内外中間」というような関係があるのではなくて、仏性はそのまま山河大地なのである、…。
 「仏性」というのは、「ほとけ」に関わる話ではなくて、やはり、先に挙げたように「仏」の字の本来の意味「ほのか・かすか。彷彿という熟語で、それらしくありながら、はっきりとは見えないさまを表す」(『漢語林』)のであって、また繰り返しますが、例えば、「特に珍しい眺めというわけではない」風景が「輝く生命の姿」(第四章3節)見せていることを指している、と考えるのがいいのではないか、という気がします。
 そして世の「山河大地」、森羅万象の一切が実はそのように存在しているのであって、そのことを認識し、把握することを、悟りというのではないか、と考えみます。》