師の坐禅には、八寸の鉄塔一基を頂上におく。如載(ニョザイ)宝冠なり。この塔を落地却(ラクチキャク)せしめざらんと功夫(クフウ)すれば、ねぶらざるなり。
 その塔、いま本山にあり、庫下(クカ)に交割(コウカツ)す。
 かくのごとく辨道すること、死にいたりて懈惓(ケゲン)なし。
 

【現代語訳】
 師が坐禅する時には、八寸の鉄塔を頭の上に置いて、宝冠をかぶっているようでした。この塔を落とさないように努めることで、眠らなかったのです。
 その塔は今、大梅山にあり、護聖寺の庫院に代々引き継がれています。
 法常禅師は、このような修行を死ぬまで怠らなかったのです。

 

《法常禅師の行持の峻厳な様を、具体的な一端を挙げて語ります。
 坐禅の時に頭に「八寸の鉄塔」を載せて睡魔と戦った、といいます。鉄で作った五重塔のようなものを考えればいいのでしょうか、鉄塔という言い方にも驚かされますが、八寸は、普通に考えれば一寸が三,〇三㎝ですから、ざっと二五㎝、ずいぶん高いものですから、重さもかなりのものでしょう。細身の背の高いものですから不安定で、載せておくだけでも大変でしょうが、その上重いもので、しかも鉄ですから落ちれば、その落ち方では怪我もしかねません。
 目がちゃんと覚めていても、なかなかの緊張感でしょう。
 見た目にはかなり滑稽な姿と思われますが、そんなことは頓着しない人柄が思われます。もっとも山のてっぺんで、人から離れたところですから、その点は問題ないのでしょうか。
 一事が万事で、一切がこうした一途な修行だったということと思われます。
 「その塔、いま本山にあり」について『行持』が「おそらく著者(禅師)が、在宋中、諸山を遍歴して、大梅山護聖寺に宿泊した時に、実際に見聞した事実にもとづくものであろうと推測される」と言います。大梅山は「浙江省寧波府を去ること、東南七十里にある山」(同)。寧波は天童山の近く、一里は、日本でならおよそ4㎞で二百八十キロですが、中国の一里は五百㍍前後のようで、それなら三十五㎞ですから、そんなに遠い距離ではありません。

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