あるとき、馬祖ことさら僧をつかはしてとはしむ、
「和尚そのかみ馬祖を参見せしに、得何(トクガ)道理、便住此山(ビンジュウシザン)なる。」
 師いはく、「馬祖われにむかひていふ、即心是仏。すなはちこの山に住す。」
 僧いはく、「近日仏法また別なり。」
 師いはく、「作麽生(ソモサン)別なる。」
 僧いはく、「馬祖いはく、非心非仏とあり。」
 師いはく、「這老漢(シャロウカン)、ひとを惑乱すること、了期(リョウゴ)あるべからず。 任他非心非仏、我祗管(ガジカン)即心是仏。」
 この道をもちて馬祖に挙似(コジ)す。馬祖いはく、「梅子熟也(バイスジュクヤ)。」
 この因縁は、人天みなしれるところなり。
 

【現代語訳】
 あるとき、馬祖は試しに師の所へ僧を遣わして質問しました。
「和尚は以前、馬祖に見えて、どんな道理を会得して、この山に住むようになったのですか。」
 師は答えて、「馬祖は私に、即心是仏と言った。それでこの山に住んでいる。」
 僧が言うには、「馬祖の近頃の仏法は、それとは違います。」
 師が言うに、「どのように違うのか。」
 僧が答えるに、「馬祖は、非心非仏(心でも仏でもない)と言っています。」
 師が言うに、「この老人は、また人を惑わせているようだな。非心非仏と言うなら言っておればよい。私はひたすら即心是仏だ。」
 師は、この言葉で馬祖に答えたのです。これを聞いた馬祖は言いました。「梅の実は熟したようだ。」と。
 この法常禅師の因縁は、人間界天上界に広く知られているところです。
 

《興味深い話です。法常は馬祖の「即心是仏」という言葉に大悟して大梅山に籠もったのでした(第十三章)。ところがここでは、馬祖はこの頃「非心非仏」ということを言っているが、どうなのかと、使いの僧から問われます。
 あなたに即心是仏と教えた当の師匠が現在は考え方を変えているのに、あなたがいつまでも元の言葉を信奉し続けているのは、遅れているのではないか、いわゆる、舟に刻みて剣を求む、という類いではないか、という問いでしょう。
 それに対する法常の答えがなかなか微妙です。
 「即心是仏」と「非心非仏」については、『行持』が「仏法から言えば、基本的には即心即仏であり、即心是仏であるが、それに執してとらわれると、かえって真を失うという配慮から、心をも仏をも否定する必要があるという意を示している」と言いますが、「非心非仏」をネットで検索すると、ここでのやりとりを取り上げた様々な法話、解説が出てきて、そのおおむねは、「即心是仏」と「非心非仏」とは、同じこと、ないし表裏の関係にある、と考えるのが一般のようです。
 「即心是仏」巻で禅師は「即心是仏とは、発心・修行・菩提・涅槃の諸仏なり」と言っていました(第七章)が、「発心・修行・菩提・涅槃」を修証する姿を即心是仏と言い、あのありようは「非心非仏」でなくてはならぬ、というようなことでしょうか。
 「這老漢」の「這」は、「この」、「老」は目上の人への敬意、親愛を示す語、「漢」は男性の呼称で、馬祖を指す(使いの僧を指す、という考え方もあるようですが)と考えられます。
 あの老僧は、またそういうことを言って人を試しておいでのようだ、側の人は振り回されて大変だろうが、まあそういう教え方をなさるお方なのだ、私は即心是仏で行くのだよ、といった気持ちでしょうか。「了期」は議論の終(了)わる時。
 敬意・親愛を示しながら「あるべからず」と言い切っているのがいい感じです。敬意がある分だけ、かえって彼の断固たる確信・信念が感じられて、「梅の実は熟したようだ」というのも宜なるかなです。「梅の実」は、もちろん大梅山の僧であることをもじったもので、これもなかなかしゃれています。》


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