おほよそ仏道に登入(トウニュウ)する最初より、はるかに三界の人天(ニンデン)をこゆるなり。三界の所使にあらず、三界の所見にあらざること、審細に咨問すべし。
 身口意(シンクイ)および依正(エショウ)をきたして、功夫参究すべし。
 仏祖行持の功徳、もとより人天を済度(サイド)する巨益(コヤク)ありとも、人天さらに仏祖の行持にたすけらるると覚知せざるなり。
 

【現代語訳】
 およそ僧は、仏道に入る最初から、遙かに世間の人々を越えているのです。僧は世間に使われるものではなく、世間に見られるものではないことを、詳しく尋ねなさい。
 身の振る舞い、話す言葉、心に思うこと、そして自分の身体と環境のすべてを使って修行に精進しなさい。
 仏祖の行持の功徳には、もともと人間界天上界の人々を済度する大きな利益があるのですが、人間界天上界の人々は、少しも仏祖の行持に助けられているとは自覚しないのです。
 

《第二十一章からの、仏道と「人天」、「俗の能」と「僧の徳」は決定的に異なるものだ、という一連の話の結びです。
 仏道世界はそこに心を向けたその時から、三界(「いっさいの衆生の生死輪廻する三種の迷いの世界。すなわち、欲界・色界・無色界」・コトバンク)とは決定的に異なるものなのだ、ということを、しっかりと自覚しなければならない。
 「仏祖行持の功徳、もとより人天を済度する」ということについては、「発菩提心」巻で語られた「自未得度先度他」という考え方を言うのだと思われますが、出家者はそういう行いをしているのだけれども、一般の人はそのことに気付かないでいる、…。
 例えば『蜘蛛の糸』の物語で、釈迦は犍陀多の目の前に蜘蛛の糸を垂らして極楽に招くのですが、実は、私たちの目の前にもしばしばそうした糸が垂らされているのだ、というようなことでしょうか。
 しかし私たちはそれが極楽へ招かれた糸であることに気付かないままに、あたら大きな機会を逃しているのかも知れません。
 しかし、その中に、時にそれに気づく人がいるわけで、そういう人が出家します。例えば『発心集』巻三の讃岐源太夫のような人かと思われます。
 「仏道に登入」した人は、そのように「人天」から知られずとも、それは世界の決定的相違であることを「審細に咨問」して、ひたすらに自らの修行に励むことを考えなくてはならないのだ、…。》


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