ただまさに、家郷あらんは家郷をはなれ、恩愛あらんは恩愛をはなれ、名あらんは名をのがれ、利あらんは利をのがれ、田園あらんは田園をのがれ、親族あらんは親族をはなるべし。
 名利等なからんも、又はなるべし。すでにあるをはなる、なきをもはなるべき道理、あきらかなり。それすなはち一条の行持なり。
 生前(ショウゼン)に名利をなげすてて、一事を行持せん、仏寿長遠(チョウオン)の行持なり。
 いまこの行持、さだめて行持に行持せらるるなり。この行持あらん身心(シンジン)、みづからも愛すべし、みづからもうやまふべし。
 

【現代語訳】
 ですから、ただまさに故郷のある人は故郷を離れ、恩愛のある人は恩愛を離れ、名声のある人は名声を逃れ、利益のある人は利益を逃れ、田園のある人は田園を逃れ、親族のある人は親族を離れなさい。
 名利などが無い人も、又これらのことから離れなさい。既にある人が離れるべきなのですから、無い人も離れなければならない道理は明らかです。それが一筋の行持というものです。
 生きている間に、名利を投げ捨てて、仏道の一事を行持することは、釈尊の寿命を永遠のものにする行持なのです。
 今のこの行持は、必ず行持することによって行持されていくものなのです。この行持をする自分の身心を、自ら大切にしなさい。この身心を自ら敬いなさい。
 

《仏祖が切り開いた大道を行持するには、つまり真実を求める修行をするには、まず一切のもの、家郷、恩愛、名、利、田園、親族、から離れなければならない、…。なぜなら、そういうものに心が執していると、それが色眼鏡となって、あるいはおかしなレンズとなって、あるものがあるままには見えなくなるから。そこで世俗の縁の一切を棄て離れる、これは例えば西行の出家の時の状況です。
 そしてそういう執するものがない人も、またそこから離れなければならない、…。これは禅師独特の言い回しで、つまり執することから離れようという心からもまた離れなければならない、ということのようです。
 ここについて『提唱』が「これは難しい。いったいどうやっていったらいいんだかよくわからんというんだけれども、これは坐禅をしておるとわかる。坐禅をしておる状態ですよ」と言うのですが、この程度のことは語ってほしい気がします。
 さて、そのように、世俗の一切から徹底的に離れることを求めます。そういう自分に自信を持ってよい、と言います。
 ただしかし、こう強調されると、やはり先の「もとより(豊屋に)あらんは論にあらず」(第十九章)とか「大悟をまつことなかれ」(前節)が気になります。現実に「豊屋」や諸縁の中にいるなら、それはそれで「論にあらず」ということと、「家郷あらんは家郷をはなれ」とは、どうつながるのでしょうか。
 前節では、現実に「豊屋」や諸縁のなかにいるのは、それはそれとして、そういうものへの「執着」を断ち切ればよいのだと解してみましたが、本当にそうなのだろうか、という疑問を残したまま、次の人に行きます。

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