大慈寰中(カンチュウ)禅師いはく、「一丈を説得せんよりは、一尺を行取(ギョウシュ)せんに如(シ)かず。一尺を説得せんよりは、一寸を行取せんに如かず。」
 これは、時人(ジニン)の行持おろそかにして、仏道の通達(ツウダツ)をわすれたるがごとくなるをいましむるににたりといへども、一丈の説は不是(フゼ)とにはあらず、一尺の行(ギョウ)は一丈説よりも大功(ダイコウ)なるといふなり。
 なんぞただ丈尺の度量のみならん、はるかに須弥(シュミ)と芥子(ケシ)との論功もあるべきなり。
 須弥に全量あり、芥子に全量あり。行持の大節(ダイセツ)、これかくのごとし。
 いまの道得は、寰中の自為道にあらず、寰中の自為道なり。
 

【現代語訳】
 大慈寰中禅師が言うことには、「法を一丈説くよりも、一尺を行ずるほうがよい。一尺説くよりも、一寸を行ずるほうがよい。」と。
 これは、当時の人が修行を疎かにして、仏道に通暁することを忘れているのを戒めているようですが、一丈の説法が無駄という訳ではありません。一尺の行は一丈の説法よりも功が大きいと言っているのです。
 それは、単に丈と尺ほどの違いだけでしょうか、遙かに須弥山と芥子粒ほどの功の違いがあると論じてもよいのです。
 しかし、須弥山には須弥山としての功の全量があるのであり、芥子粒には芥子粒としての功の全量があるのです。行持する上で守るべき大切な事柄とは、このようなことです。
 今の寰中禅師の言葉は、寰中の自らの言葉ではありません。寰中の自らの仏道なのです。(この訳不確実)
 

《この章は、三人の先師が語った「説」と「行」についての言葉を挙げて、禅師の考えを語っています。
 寰中(八六二年沒)の話が十六人目のエピソードになります。一丈は一尺の十倍で、「説」は経典の理論学習、「行」は実行、作務・坐禅でしょうか。
 十の理論より一の実行が尊いと寰中が言いました。これは普通には理屈を言わないで実行すればいいのだとなりがちですが、しかし禅師の考えは違いました。実行は理論に勝るが、といって理論に価値がないというのではなく、理論は理論として価値あるものである、と言います。その比喩の「須弥に全量あり、芥子に全量あり」は大変うまく分かり易く、したがってまたいい言葉です。大は大で充実し、小は小で充実している、万物の生き様もまた、そのように理解されなければなりません。
 終わりの一行の解釈は、諸注、二様に分かれるようで、列記しておきます。
 『行持』・『提唱』・寰中が自己の考えから発した言葉ではなく、寰中が仏道の真理にもとづいておのずから発した言葉なのである(「自」を、みずから、と、おのずから、とに取り分けた解釈)。
 『全訳注』・彼が広い世間に向かって言ったものではなく、むしろ、じっと自己に向かって言いきかせたものであろう(「寰中」には「世界中」の意味があり、それと人名とに取り分けた解釈)。》にほんブログ村 本ブログ 古典文学へにほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ