古来の仏祖いひきたれることあり、いはゆる、「若し人、生けらんこと百歳ならんに、諸仏の機を会(エ)せざらんは、未だ生けらんこと一日にして、能く之を決了せんには若かず。」
 これは一仏二仏のいふところにあらず、諸仏の道取しきたれるところなり。諸仏の行取しきたれるところなり。
 百千万劫(ゴウ)の回生(カイショウ)回死のなかに、行持ある一日は、髻中(ケイチュウ)の明珠なり、同生(ドウショウ)同死の古鏡なり、よろこぶべき一日なり。行持力みづからよろこばるるなり。
 

【現代語訳】
 昔から仏祖が言って来たことがあります。それは、「もし人が百年生きたとしても、諸仏の働きを会得しなければ、一日の命でこれを会得した者には及ばない。」ということです。
 これは一人二人の仏の言葉ではありません。すべての仏が説いてきたことであり、すべての仏が行じてきたことなのです。
 百千万劫の無限の時間にわたって生死をめぐり続ける中で、行持のある一日は、髻の中の宝石にも譬えられる本来の自己であり、また古い鏡にも譬えられる生死を共にする自己の仏性であり、喜ぶべき一日なのです。この行持の力によって自ら喜ばしくなるのです。
 

《『行持』は「若し人、生けらんこと…」が第十七祖僧伽難提(ソウギャナンダイ)の言葉であるとして、「一私案に外ならない」としながら、以下第二十七章までをこの人にまつわるエピソードとして扱っています。確かに以下の話は前章の「説」と「行」の話とは異なる話です。
 しかし、『全訳注』は前章から続けてひとまとまりの段落としていて、全体三十五人の中にこの人の名を挙げていません。それは、初めの言葉を「『法句経』などにしばしばみる句である」として、文中に取り立てて僧伽難提の名が出てこないことによると思われます。
 ここでは、便宜的に、僧伽難提のエピソードとしてタイトルをつけ、人数の数え方は、『全訳注』に従っておきます。

 さて、ここでは、「行持ある一日」の意味が主題で、百年何もしないままの長生きよりも、行持を行った一日の方が尊い、と言い切った言葉から話が始まります。俗に言えば、細く長く生きるよりも、太く短く生きる方がいい、というようなことになるでしょうか。
 「同生同死」は、先にもあった言葉(第三章2節)で、「諸仏と生・死を一緒にすること」、「古鏡」は本書「古鏡」巻の話を踏まえた言葉で、「修行者の内なる仏性であり、本来の面目」(『行持』)、そこで、「行持ある一日」は、諸仏とともにある自らの仏性が形をとったものである、というような意味になりましょうか。


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