香厳(キョウゲン)の智閑(シカン)禅師は、大潙(ダイイ)に耕道せしとき、一句を道得せんとするに、数番つひに道不得(ドウフトク)なり。これをかなしみて、書籍(ショジャク)を火にやきて、行粥飯僧(ギョウシュクハンゾウ)となりて、年月を経歴(キョウリャク)しき。
 のちに武当山にいりて、大証の旧跡をたづねて、結草為庵(イアン)し、放下(ホウゲ)幽棲す。一日わづかに道路を併浄(ヘイジョウ)するに、礫(カワラ)のほとばしりて、竹にあたりて声をなすによりて、忽然として悟道す。
 のちに香厳寺に住して、一盂一衲(イチウイチノウ)を平生(ヘイゼイ)に不換なり。奇巌(キガン)清泉をしめて、一生偃息(エンソク)の幽棲とせり。
 行跡おほく本山にのこれり。平生に山をいでざりけるといふ。
 

【現代語訳】
 香厳寺の智閑禅師は、大潙禅師(潙山霊祐)の下で修行していた時、大潙に生まれる前の自己を問われて、幾度も答えようとしましたが、遂に答えることが出来ませんでした。智閑はこれを悲しんで、持てる書物を焼いて、粥飯を給仕する僧となって月日を送りました。
 後に武当山に入り、大証国師の旧跡を訪ねて草庵を結び、全てを捨てて静かに住んでいました。ある日のこと、少し道路を掃き清めていると、小石が飛び散って竹に当たり、音を立てたことで、たちまち仏道を悟りました。
 智閑は、後に香厳寺に住んで、平生 一衣一鉢を換えない簡素な生活を送りました。山中の奇岩や清泉を場所として、一生安息の住み処としたのです。
 智閑禅師の行跡は、武当山に数多く残っています。禅師は平生、山を出ることはなかったといいます。
 

《二十人目、香厳智閑(八九八年沒)のエピソードです。
 初めの「書籍を火にやきて、行粥飯僧となりて」は、前章の一知半解なくとも、無為の絶学」の話の流れと思われます。
 「悟道」の時の話は、「香厳撃竹」と称される名高い話で、この書の中でも先の「渓声山色」巻で詳しく語られています(第四、五章)。
 私はそこで「静寂の中の乾いた澄んだ音によって、周囲の山荘の光景が、突然太初の原風景に変わり、智閑はその中に佇んでいる原初の自己の姿を感じたのだ、と思ってみたい気がします」と書きました。
 ここでは、そのことよりも、前の「放下幽棲」、後の「一盂一衲」が話の中心かと思われます。
 なお、大潙が問うたのは「父母未生以前」の消息の「一句」だったのですが、香厳はこの経験の後に師に「一撃に所知を亡ず」に始まる偈を以て応え、師から「此の子、徹せり」と認可を得ました。これもまた、前節の「説似一物即不中」に通じる認識です。



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