いまの見仏聞法(モンポウ)は、仏祖面々の行持よりきたれる慈恩なり。仏祖もし単伝せずば、いかにしてか今日にいたらん。
 一句の恩なほ報謝すべし、一法の恩なほ報謝すべし、いはんや正法眼蔵無上大法の大恩、これを報謝せざらんや。
 一日に無量恒河沙(ゴウガシャ)の身命、すてんことねがふべし。法のためにすてんかばねは、世世(セセ)のわれら、かへりて礼拝供養すべし。諸天龍神、ともに恭敬尊重(クギョウソンジュウ)し、守護讃嘆するところなり。道理それ必然なるがゆゑに。
 

【現代語訳】
 我々が今、仏に見えて法を聞くことが出来るのは、仏祖一人一人の修行によって、法が伝えられてきたお陰なのです。仏祖がもし、親しく法を伝えてこなければ、どうして今日まで伝わったでしょうか。
 ですから、仏祖の伝えてくれた一句の恩にも感謝することです。一法の恩にも感謝しなさい。まして正法眼蔵の無上の大法を伝えてくださった大恩に感謝せずにいられましょうか。
 法の為に、一日に限りない数の身命を捨てようと願いなさい。法の為に捨てた屍は、後の代々の我々が、かえって礼拝し供養することでしょう。天神たちや龍神たちも、共に敬い尊重して守護し讃嘆するのです。これは必然の道理なのです。
 

《禅師がどれほど達磨に対する思いが強いかということを物語る一節です。
 『行持』はそのことを「一文ごとに熱してきて、終わりには、反語的に、『報謝』の大事なることを強調している」と言い、さらに「そして『今日』(「こんにち」と読むのでしょう)こそ、行持を実現するための唯一の立場・足場であることを指摘しているのである。この覚悟の上に」以下のことが説かれていて、「一日の行持のもたらす功徳の無量・無上なるかを説いてやまない」と言いますが、それはあくまでも達磨の正法を伝えたという歴史的偉業に対して「礼拝供養」することであって、先にも触れましたが、達磨が至った境地そのものについてではない、ということが物足りなく思われます(第六章1節、第七章)。
 いや、あるいはその境地は、「正法眼蔵無上大法」としてすでに禅師の中に受け継がれているので改めて語るまでもなく、禅師の存在そのものが達磨の存在、達磨の境地の証明である、そしてその真髄が、例えば「現成公案」巻である、ということなのでしょうか。
 達磨から禅師へ、多くの祖師によって受け継がれてきた、いわば「貫く棒の如きもの」が意識されていると考えるのです。なるほど、そう考えれば、その「棒」の始祖に対する「恭敬尊重」の気持ちも理解できます。


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