石頭大師は、草庵を大石にむすびて、石上に坐禅す。昼夜にねぶらず、坐せざるときなし。衆務を虧闕(キケツ)せずといゑども、十二時の坐禅かならずつとめきたれり。
 いま青原(セイゲン)の一派の天下に流通(ルヅウ)すること、人天を利潤せしむることは、石頭大力の行持堅固のしかあらしむるなり。いまの雲門、法眼(ホウゲン)のあきらむるところある、みな石頭大師の法孫なり。
 

【現代語訳】
 石頭大師(希遷)は、草庵を大石に結んで、石の上で坐禅しました。昼夜に眠らず坐していない時はありませんでした。日々の務めを欠くことはありませんでしたが、一日の坐禅を必ず努めたのです。
 今日、青原(行思)の一派が天下に広まって人々を利益していることは、石頭の優れた力による堅固な修行のお蔭なのです。今日の雲門宗や法眼宗で、法の眼を明らかにした人たちは、皆、石頭大師の法孫です。
 

ここは、前節末の寺を創建しなかったという話の例として語られているようにも見えますが、『全訳注』、『行持』ともに、独立した一人の例話として扱っていますので、これだけの短い話ですが、これで一章とし、この石頭大師を慧可に続く二十七番目の人と数えることにします。
 「「六祖の大鑑慧能の弟子となったが、具足戒を受けない前に、師の入寂に会い、その遺命に従って、廬陵の青原山に住していた、慧能の弟子の行思に随侍した」(『行持』)という人です。
 「草庵を大石にむすびて」は、何のことかと思いますが、文字どおり石の上に草庵を作ったようです。
 「衆務を虧闕せずといゑども、十二時の坐禅かならずつとめきたれり」も妙な言い方で、普通は「いゑども」ではなく、「その上に」とつなぐところでしょう。
 達磨と慧可が正法を伝えたという点で評価されているのと違って、ここは普通の行持が優れているという点で取り上げられている、ということで、独立した扱いということでしょうか。行持の「堅固」であったことが、後継の人々の範となったことが讃えられています。
 彼は「具足戒」を受けていないからでしょうか、「仏祖」巻の仏祖五十七人の内には挙げられていませんが、『行持』が、この人については「仏道」巻で取り上げられていることを示していて、そこで禅師は「仏道の正伝、ただ、無際(石頭の諡・おくりな)のみ、唯達なり」と言っていますから、それで言えば、やはり慧可と同じく、法を受け継いだ扱いになっているとも言えます。
 なお、この人のミイラが総持寺に祀られてあり、毎月二十五日には、無際大師月忌が営まれるのだそうです。》

 

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