第三十一祖大医禅師は、十四歳のそのかみ、三祖大師をみしより、服労九載なり。すでに仏祖の祖風を嗣続(シゾク)するより、摂心無寐(ムビ)にして脅不至席なること僅(ワズカニ)六十年なり。化(ケ)、怨親(オンシン)にかうぶらしめ、徳、人天にあまねし。真丹の第四祖なり。
 貞観(ジョウガン)癸卯(ミズノトウ)の歳、太宗、師の道味(ドウミ)を嚮(トウト)び、風彩を瞻(ミ)んと欲して、赴京(フキョウ)を詔す。
 師、上表遜謝(ソンシャ)すること前後三返なり。竟(ツイ)に疾を以て辞す。
 第四度、使に命じて曰く、「如(モ)し果して赴か不んば、即ち首を取り来れ。」
 使、山に至って旨を諭す。
 師、乃ち頸(クビ)を引いて刃に就く、神色儼然たり。
 使0、之を異とし、廻(カエ)りて状を以て聞(モン)す。帝、弥加(イヨイヨ)歎慕す。珎繒(チンソウ)を就賜(シュウシ)して、以て其の志を遂ぐ
 しかあればすなはち、四祖禅師は、身命(シンミョウ)を身命とせず、王臣に親近(シンゴン)せざらんと行持せる行持、これ千歳の一遇なり。
 

【現代語訳】
 釈尊から第三十一代の祖師大医禅師(道信)は、十四歳の頃に三祖大師(僧璨)と出会ってから、師に九年間従いました。仏祖の家風を受け継いでからは、心を整えて眠ることなく、身を横たえずに、ほぼ六十年過ごしました。その教化は、怨みのある人にも親しき人にも等しく及んで、道徳は人間界天上界に行き渡りました。大医禅師は中国の第四祖です。
 唐の貞観十七年、太宗皇帝は大医禅師の道風を尊んで、その風采を見ようと都に来るように命じました。
 師は書を差し上げてお断りすること前後三回して、終には病気を理由に辞退しました。
 太宗は、四度目に使者に命じて言いました。「どうしても来ないと言うのなら首を取ってこい。」
 使者は大医禅師の住む山に行って、その言葉を伝えました。
 すると師は、首を伸ばして刀の前に坐りました。その態度は気高く厳かでした。
 使者はこの様子を怪しんで、帰って書状で太宗に報告すると、帝は師をいよいよ感歎し敬慕するようになりました。そこで貴重な絹織物を師に贈り、その志を遂げたのです。
 このように四祖大医禅師が、自らの身命を身命とも思わず、国王大臣に親近しないように身を処した行持は、千年に一度しか巡り会えない優れた行持です。
 

《二十八人目のエピソードです。
 権力に屈しなかったという、これまでの話にはなかった、ちょっと珍しい話です。
 第一に、この人はなぜ太宗の招きに応じなかったのか、ということがありますが、ここでは「王臣に親近せざらんと行持せる行持」とあって、時の権力に近づくまいとする姿勢が讃えられているように見えます。
 しかし、次の節では、それよりも行持を重んじたからだ、ということになっています。
 いきなり第三十一祖という数字が出てきて、随分時代が一足飛びに下ったように見えますが、実はこれは釈尊から数えてのものです。
 ちなみに慧可は「真丹第二祖」とあるだけでしたし、中国の祖はこれまで達磨を初祖として数えた数字で語られてきました。
 『行持』は「達磨について『釈迦牟尼仏より二十八世の嫡嗣』(第三章2節)とあるのを受けた称呼」と言いますが、達磨は初代ですから、そのように呼ぶ意味はあるとしても、この人にはその意味はあまりないように思われます。
 達磨から数えれば第四祖になる人のようです。前の石頭が第八祖に当たるようですから、順序が後返りした格好です。それを思うと、石頭はやはりその前の、自分の寺を作らなかったという話の単なる一例ではなかったかという気がしますが、上巻でも順序は交錯していましたから、まあ、禅師の思い浮かぶまま、ということで、大きな問題ではないのでしょう。逆に、そうだとすると、達磨について語られるのが、随分遅かったと言うべきでしょうか。
 「其の志を遂ぐ」は、「その志のままにせしめた」(『全訳注』という解釈と「大医を見たいという望みをみたした」(『行持』)という解釈があるようです。
 さて、以下にこの人の行持に姿が語られます。》

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