しるべし、一切諸法、悉皆解脱なり。諸法の空なるにあらず、諸法の諸法ならざるにあらず、悉皆解脱なる諸法なり。
 いま四祖には、未入塔時の行持あり、既在塔時の行持あるなり。生者(ショウジャ)かならず滅ありと見聞するは小見なり、滅者は無思覚と知見せるは小聞(ショウモン)なり。
 学道には、これらの小聞、小見をならふことなかれ。生者の滅なきもあるべし、滅者の有思覚(ユウシカク)なるもあるべきなり。
 

【現代語訳】
 知ることです。全てのものは、ことごとく皆解脱しているのです。これは、全てのものが空である、というのではありません。また、全てのものは全てのものとして存在しているわけではない、というのでもありません。元来、ことごとく皆解脱しているのが全てのものの様子なのです。
 先ほどの四祖(大医禅師)には、塔に入る前の行持があり、また、塔の中での行持がありました。ですから、生者には必ず滅があると見ることは、浅はかな考えであり、死者には思量覚知が無いと見ることは、狭い知識なのです。
 仏道を学ぶには、このような浅はかな知識や考えを学んではいけません。生者には滅がないこともあるだろうし、死者には思量覚知があってもよいのです。
 

《さて、そういう奇蹟はともかくとして、禅師よって「一切諸法、悉皆解脱」が説かれます。
 「諸法」は、この世のすべての事象の意、「解脱」は「ときはなたれること、…迷いや煩悩や苦悩や執着から抜け出て、自由となること」(『行持』)ですが、では「すべての事象は解き放たれている」とはどういうことか。
 それは「空」(「永続性ある実体ではなく変化して消滅してゆく、仮の存在」・『行持』)であることと間違えられやすいが、そうではない、…。
 つまり、言い換えれば「諸法の諸法ならざるにあらず」、すべての事象はそれ自体として実体を持っているのだ、…。
 ただし、それは「解脱なる諸法」である、生の実体を持ったものではなく、解き放たれたものとして存在しているのだ、…。ここでもまた、あの画家の見た風景(「現成公案」巻第三章6節)を思い出してみると、考えやすいように思います。
 実在としてだけの「諸法(もの)」は「空」であっても、ものがその所を得て存在しているとき、そのものはその輝きを増す、…。それを、解脱している、というように考えていいでしょうか。その時、時間は止まって、ものは時間の制約を受けず、それ自体としてそこに存在します。
 そういう輝きを見抜くこと、もののそういうあり方に気づくこと、また私自身がそういうあり方をすること、それさえできれば、…。
 大医はそれをなんとしても捉えたかったので、「未入塔時」には太宗の招きをも死を以て固辞し、「既在塔時」には後進に伝えようとしてみずから戸を開けたのでしょう。それは奇蹟ではありますが、ないことではないのかも知れません。


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