又況(イワン)や活計具足し、風景疎ならず、華笑むことを解(ゲ)し、鳥啼くことを解す、木馬長(トコシナ)えに鳴(イナナ)き、石牛善く走(ワシ)る。
 天外の青山色寡(スクナ)く、耳畔(ニハン)の鳴泉声無し。
 嶺上猿啼いて、露中霄(チュウショウ)の月を湿(ウルオ)し、林間鶴唳(ナ)いて、風清暁の松を回(メグ)る。春風起る時、枯木龍吟し、秋葉凋みて、寒林花散ず。
 玉階苔蘚の紋を鋪(シ)き、人面(ニンメン)煙霞の色を帯ぶ。
 音塵寂爾(ジャクニ)として、消息宛然(エンネン)たり。
 一味蕭条として、趣向すべき無し。

 

【現代語訳】
 ましてここは生計が備わり、風景もよろしい。花は咲き、鳥は鳴いている。木の馬は永えに嘶き、石の牛はよく走り回っている。
 天に聳える青い山は霞み、耳に響く泉の声は静かである。
 山上に猿は啼いて、夜露は天空の月を濡らし、林間に鶴は鳴いて、風は清らかな暁の松を吹きわたっている。春風が吹けば、枯れ木はビューと鳴って芽吹き、秋には葉がしおれて、冬の林に紅葉の花を散らす。
 石の階段は苔のあや模様を広げ、人の顔は霞に煙っている。
 世間の塵は届かず静かであり、その様子は自然そのままである。
 ただ閑寂があるだけで、求めるべきものはない。
 

《前章で道楷の生活の仕方が語られましたが、ここはその環境の話です。
 そのように暮らしていて、生活に苦労はなく、それを取り巻く自然はといえば、生き生きと活動し(「華笑むことを…」)、風景は穏やかで(「天外の青山…」)、風雅に満ち(「峰上去る啼いて…」)、修行の場である建物は清楚なたたずまいであり(「玉階苔の紋を…」)、行き交う修行僧の表情も穏やかである(「人面煙霞…」)云々と、かけがえのない、のどかで。落ちついた様子が語られ、「趣向すべき無し」と結ばれます。
 この最後の一句は「あくせくと努力するような様子もなく、一切が静かに落ち着いておる」(『提唱』)とか、「何か目的に向かって動いてゆとい必要がない」(『行持』)とか、という解もありますが、自然の様子を言ったところですから、「なんの心を騒がすものもない」(『全訳注』)という意味に考えるが穏当ではないかと思われます。
 初めの、「木馬」「石牛」…は、「芙蓉山中の馬・牛に似た樹木、巌石が、それぞれ、働きを持ち、生命あるものとして把握されている」(『行持』)のだそうです。》

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