山僧今日、諸人の面前に向かって家門を説く、已(スデ)に是れ便りを著(ツ)けず。
豈(アニ)更に去って陞堂入室(ジンドウニッシツ)し、拈槌竪払(ネンツイジュボツ)し、東喝西棒して、眉を張り目を怒らし、癇病(カンビョウ)の発するが如くに相(アイ)似たるべけんや。
唯(タダ)上座(ジョウザ)を屈沈するのみにあらず、況や亦た先聖に辜負(コフ)せんをや。
【現代語訳】
山僧(私)は今日、皆の前で仏祖の家風を説いたが、これさえすでに余計なことである。
どうして更に法堂で説法したり、室内で一人一人指導したり、槌を手に取ったり、払子を立てたり、東西に喝や棒を行じて、眉を吊り上げ目を怒らして、癇癪を起こしたようなことをする必要があろうか。
それはただ修行僧をおとしめるだけでなく、更に昔の仏祖にも背くことになろう。
《「便りを著けず」(原文・「不著便」)は、諸注さまざまです。
『行持』・「口先巧みにものを言うことができない。『便』は、口先がうまい。…」。
『提唱』・「口を使って説法するということをしない場合でも」。
『全訳注』は「これはどうも勝手が違って具合が悪い」。
後へのつながりから見ると、ここの訳か、『全訳注』がよさそうです。
後はこの訳のとおりに解するとして、前節からのつながりを考えると、道楷のいるこの寺では、食はあるに合わせて足りるとし、穏やかな環境に恵まれて、修行に専念できている、この上私が教えを述べたり厳しく指導したりする必要はないのだ、というような趣旨でしょうか。
それを『行持』は「(自分の)力量の限度・限界を告白し、表白して」いるのだと言いますが、修行にふさわしい環境を作ることによって、人は自然にその方向に向かうはずなのだという信念のもとで行われていることだと考えたい気がしますが、どうでしょうか。》