第三十二祖大満禅師は、黄梅(オウバイ)の人なり。俗姓(ゾクショウ)は周氏なり、母の姓を称(トナウ)なり。師は無父而生(ムフニショウ)なり。たとへば李老君のごとし。
 七歳伝法よりのち、七十有四にいたるまで、仏祖正法眼蔵よくこれを住持し、ひそかに衣法を慧能行者に附属するゆゑに、正法の寿命不断なるなり。
 

【現代語訳】
 第三十二祖大満禅師(弘忍)は黄梅県の人です。俗姓は周氏であり、母の姓を名乗っていました。禅師は父なくして生まれ、それは李という母の姓を名乗った李老君(老子)に似ています。
 禅師は、七歳で法を受け継いでから七十四歳まで、仏祖の正法眼蔵(正法の真髄)をよく護持して、密かに伝来の袈裟と正法を、慧能行者に託したことで、正法の命脈は今日まで絶えることがないのです。
 

《三十四人目。大満弘忍は前の馬祖からさらに時代は返って七世紀の人で、中国の第五祖になります。
 ここには原文の異同があるのか、手元の諸注は、この後段、「住持し」の後が、「ひそかに衣法を慧能行者に附属する、不群の行持なり。衣法を神秀(ジンシュウ)にしらせず、慧能に付属するゆゑに、正法の寿命不断なるなり」となっていて、言葉は重複しますが、こちらの方が、話が分かりやすくなっています。
 つまり「ひそかに」の具体的内容が神秀にしらせず」であることを明示して、それをもって「不群の行持」と賛嘆した話であるわけです。
 では、「神秀にしらせず」というのは、どういう意味があるのか、…。サイト「禅語に親しむ・本来無一物」にそのエピソードが紹介されています。
 弘忍には七百人の弟子があったそうで、彼が次の継承者を決めるに当たって、一同に、「自ら会得した境地を偈にして示せ」と言ったときに、第一の後継者と目されていた神秀という人が「身は是れ菩提樹 心は明鏡台の如し 時時に勤めて払拭せよ 塵埃を惹かしむること莫れ」という偈を詠んで一同はさすがと感心したのだそうです。
 ところが、その時、当時まだ新参の飯炊き僧に過ぎなかった慧能が、その偈の傍らに「菩提本(もと)樹無く 明鏡も亦(また)台に非ず 本来無一物 何れの処にか塵埃を惹かん」という偈を書いて、その至らなさを厳しく指摘するということがあって、賛否渦巻き大混乱になったそうです。
 結局、弘忍は慧能の境地の方が上と認めてこれを後継にすることにしたのですが、おおっぴらに伝法すると、慧能に不測の災いが降りかかることもあるのではないかと恐れて、それで「ひそかに」、「神秀にしらせず」、夜中、慧能を部屋に呼んで伝衣した、ということがあったのでした。
 あまり感心したやりかたではないような気もしますが、禅師は、そこまでしてでも自ら信じる正統を伝えたという点で、弘忍の行いをよしと考えた、ということでしょうか。
 あるいは、前節の、常に宇宙とともにあるということは、言い換えれば、本来無一物ということでもある、ということで語られた話かも知れません。》


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