あるがいはく、衆生利益(リヤク)のために、貪名(トンミョウ)愛利すといふ、おほきなる邪説なり。附仏法(フブッポウ)の外道なり、謗正法(ボウショウボウ)の魔儻(マトウ)なり。
 なんぢがいふがごとくならば、不貪(フトン)名利の仏祖は利生(リショウ)なきか。わらふべし、わらふべし。又 不貪の利生あり、いかん。又そこばくの利生あることを学せず、利生にあらざるを利生と称する魔類なるべし。
 なんぢに利益せられん衆生は、堕獄の種類なるべし。一生のくらきことをかなしむべし、愚蒙を利生に称することなかれ。
 しかあれば、師号を恩賜すとも上表辞謝する、古来の勝躅(ショウチョク)なり、晩学の参究なるべし。まのあたり先師をみる、これ人にあふなり。
 

【現代語訳】
 ところがある人は、人々を利益するために名利を求めるのだと言っています。それは大いに誤った考えです。そういう人は仏法にくっついている外道であり、正法を謗る天魔の仲間です。
 その者の言う通りなら、名利を貪らない仏祖は人々を利益しないのでしょうか。笑うべきことです。又、仏祖が名利を貪らずに人々に利益を与えてきたことを、どう考えるのでしょうか。その者は、仏祖が人々に多くの利益を与えてきたことを学ばずに、人々の利益にならないことを人々の利益と称する魔のたぐいなのです。
 その者に利益された人々は、地獄に堕ちる部類となるでしょう。その一生の暗いことを悲しまなければいけません。ですから、愚かな考えを人々を利益するために称えてはいけません。
 このように、禅師号大師号などを賜っても、書をしたためて辞退することは、古くからの勝れた行いであり、晩学後進の学ぶべき事です。私は目の当たりこのような我が師を見ましたが、これは、まことの人に会うことが出来たということです。
 

《「衆生利益のために、貪名愛利す」というのは、実にありそうな弁明ですが、それだけにわざわざ取り上げて論評するに及ばないような気もします。
 それは所詮口実にすぎず、それによって得たものの一部は本当に「衆生利益」に使われるにしても、すべてをそこに注ぐ人は極めてまれであろうと思われるからです。
 だから「貪名愛利」を捨てよと、すぐに話が進むのかと思うと、禅師の批判の方向は「不貪名利の仏祖は利生なきか」、「名利」など持たなくても、衆生を利することはできるのだ、と、ちょっと違いました。
 このあたり、禅師は気持ちが高ぶり、ひょっとして苛立ってさえいるようで、「わらふべし」を繰り返すなど、「なんぢ」について誰か具体的な批判者を意識して、その人への憤りをぶちまけているのではないかといった様子が感じられ、理論よりも情が先立っているように思われます。
 こんなふうに言われると、天邪鬼としては、逆に、名利を利用しての「利生」もあってはいいではないか、あり得るのではないか、と言いたくなります。それは、「利生にあらざるを利生と称する」ことになるのだと言われますが、それは認識の違いに過ぎないのではないでしょうか、と口に出かかります。
 しかし、普通に考えて、「利」がしばしばより多くの利を求めることになるように、欲望は常により大きな満足を求めるようにできていて、自らとどまることがないことを思えば、それが求道の妨げになることは、もちろんよく分かります。


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