四つには勤精進(ゴンショウジン)。諸の善法に於て、勤修(ゴンシュ)すること無間(ムゲン)なり、故に精進と云ふ。精(ショウ)にして雑(ゾウ)ならず、進んで退かず。
 仏の言(ノタマ)はく、
「汝等比丘、若し勤精進せば、則ち事として難き者無し。是の故に汝等、当に勤精進すべし。譬へば少水の常に流るれば、則ち能く石を穿(ウガ)つが如し。
 若し行者の心、数数(シバシバ)懈廃(ゲハイ)すれば、譬へば火を鑽(キ)るに、未だ熱からずして而も息(ヤ)めば、火を得んと欲すと雖も、火を得べきこと難きが如し。是れを精進と名づく。」
 

【現代語訳】
 第四は、勤精進(勤め精進すること)である。多くの善法を休みなく勤め修めるのである。それで精進という。精細にして雑にせず、前進して退かないのである。
 仏の言うことには、
「比丘たちよ、もし勤めて精進すれば、解脱を得る事に難しい人はいない。だからお前たちは、勤めて精進しなさい。例えば、少しの水でも常に流れていれば、よく石を穿つようなものである。
 しかし、もし修行者の心がしばしば怠けるようであれば、例えば錐もみして火を起こす時に、まだ熱くならないうちに手を休めれば、火を起こそうと思っていても、火を起こすことが難しいようなものである。これを精進という。」
 

《簡単に言えば、努力を忘れてはならない、ということだと思いますが、それを精進と言われると、少し違って、他のことは措いて、ひたすらに、といった感じになります。
 他に逃げ道はない、何かうまいやり方があるわけではない、気の利いたコツがあったり、奥の手があったりするのではない、ただひたすらに、努力しなさい、わずかな水の滴りが石に穴を開けるように、営々と、ただ愚直に勤めるしかない、と言っているようです。
 そして、「若し(そのように)勤精進せば、則ち事として難き者無し」と言います。それはちょっと甘い、ひたすらな努力をすれば何でもかなうというのは、さすがに激励の域を出ないだろうという気がしますが、考えてみれば、普通にはそうでも、求めるものが仏道であってみれば、仏道にあること自体がすでに一つの到達であり、またその先の至りつくところはその道程の様々な地点であるわけです。
 精進自体がすでに一つの悟りの姿である、と考えれば、それに勤めていることは、その刻々にその道を深めているにすぎないということであるわけです。
 ところで、水滴が石を穿つ譬えと火をおこす譬えは相容れません。火はおこす途中でやめれば火になりませんが、石の穴は水滴が止まってもそこまで掘られた穴はそのまま残ります。水火相容れないのが道理で、いささかご都合的です。いえ、もちろんこれはただの減らず口です。》


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