六つには修禅定(シュゼンジョウ)。法に住して乱れず、名づけて禅定と曰(イ)ふ。 
 仏の言はく、
「汝等比丘、若し心を摂(オサ)むれば、心則ち定(ジョウ)に在り。心定に在るが故に、能く世間消滅の法相を知る。是の故に汝等、常に当に精進して、諸の定を修習(シュジュウ)すべし。
 若し定を得る者は、心則ち散ぜず。譬へば水を惜しむ家の、善く提塘(テイトウ)を治むるが如し。行者も亦た爾(シカ)り。智慧の水の為の故に、善く禅定を修して、漏失(ロウシツ)せざらしむ。是れを名づけて定と為す。」
 

【現代語訳】
 第六は修禅定(坐禅を修めること)である。寂静の法に住して乱れないことを禅定という。
 仏の言うことには、
「比丘たちよ、もし坐禅によって心を治めれば、心は禅定にあるのである。そして心が禅定にあるから、よく世間の消滅の法の有り様を知ることが出来るのである。だからお前たちよ、常に精進してあらゆる禅定を習い修めなさい。
 もし禅定を得れば心は散乱しない。例えば水を大切にする家が、よく堤防を管理するようなものである。修行者もまたその通りである。智慧の水を守るために、よく禅定を修めて失わないようにするのである。これを修禅定という。」
 

《禅師の言葉で「禅」ということが説かれるのは、これが初めてではないかという気がしますが、どうだったでしょうか。
 コトバンクで「禅」を見ると、「サンスクリット語 dhyānaの音写で禅那とも書かれる。『禅』の原義は、(天子が) 神を祀る、(位を) 譲る、などで,これを仏教がかりたのである。姿勢を正して坐して心を一つに集中する宗教的修行法の一つ」とあります。
 「禅定」の「定」もほぼ同じような意味で使われていると思われます。
 さて、その意味は「法に住して乱れず」であると言いますが、これは前章の「不忘念」(法を守って失はざる)とどう違い、どういう関係になるのか、ということが気になります。
 例えば『提唱』は先の「法を守って失はざる」は「釈尊の説かれた教えを守って、それを失わない」ことだと言い、ここの「法に住して乱れず」では「われわれの生きておる世界の中には秩序があるわけでありますが、その秩序の中に自分の体や心をおいて、その状態を乱さないこと」だと言いますが、この場合、「法」がそれぞれ全く異なる意味に解されているように見えます。
 あるいは「われわれの生きておる世界の中」の「秩序」とは「釈尊の説かれた教え」そのものだということもあるかもしれませんが、そうだとすると、この二つは全く同じこと言っているように見えて、二つの項目にする意味がないことになりそうですが、どうなのでしょうか。》



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