七つには修智慧(シュチエ)。聞思(モンシ)修証を起こすを、智慧と為す。
 仏の言はく、
「汝等比丘、若し智慧有れば、則ち貪著(トンジャク)無し。 常に自ら省察して、失有らしめざれ。是れ則ち我が法の中に於て、能く解脱を得ん。
 若し爾(シカ)らざれば、既に道人(ドウニン)に非ず。又白衣(ビャクエ)に非ず。名づくる所無し。
 実智慧(ジッチエ)は、則ち是れ老病死海を度(ワタ)る堅牢の船なり。亦た是れ無明(ムミョウ)黒闇の大明燈(ダイミョウトウ)なり、一切病者の良薬なり、煩悩の樹を伐(キ)る利斧(リフ)なり。是の故に汝等(ナンダチ)、当に聞思修(モンシシュ)の慧を以て、而も自ら増益(ゾウヤク)すべし。
 若し人智慧の照あれば、是れ肉眼(ニクゲン)なりと雖も、而も是れ明見(ミョウケン)の人なり。是れを智慧と名づく。」

 

【現代語訳】
 第七は修智慧(解脱の智慧を修めること)である。仏の教えを聞いて、それを思惟して、修行して得た悟りを智慧という。
 仏(釈尊)の言うことには、
「比丘(僧)たちよ、もし解脱の智慧があれば、貪り執著は無くなるのである。だから、常に自らを省みて、貪り執著のあやまちを犯さないようにしなさい。これが、我が法の中で煩悩の解脱を得る方法である。
 比丘にもし解脱の智慧がなければ、それは出家の人でも、また在家の人でもない。名づけようのない人である。
 まことの解脱の智慧は、老病死の苦海を渡るための堅固な船である。また真理の法に暗い者を照らす大燈明であり、すべての病人の良薬であり、煩悩の樹を伐る鋭い斧である。だからお前たちは、教えを聞いて、思惟して、修行して得た解脱の智慧で、自らを益々利益しなさい。
 もし人に解脱の智慧の眼があれば、それは肉眼であっても法の眼を具えた人である。これを智慧という。」
 

《「聞思修証」について、『全訳注』が次のように言います。
「教法を聴聞して得る智慧があり、これを思量して得る智慧があり、またそれを実戦して得る智慧がある。…証は、いうまでもなく、悟りをひらくことである。」
 前の第六までは悟りを得るために必要なことが挙げられていたと思うのですが、ここではその悟りをひらくこと(「証」)が「修」せられることによって、「能く解脱を得ん」とあります。そのまま読むと、悟りを得ることと解脱を得ることは別々のことのように見えます。
 そこで、「解脱」とは何か。コトバンクを見ると「人間生活に伴うあらゆる苦悩や迷妄の束縛から開放されて,完全に自由になることをいう。もともとはウパニシャッドで説かれ,インド哲学一般に継承されている観念であるが,仏教では涅槃 とともに究極の目標と考えられている」とあります。
 続けて、では「涅槃」は。同じくコトバンクは、「仏教では究極的目標である永遠の平和,最高の喜び,安楽の世界を意味する。本来は風が炎を吹消すことを意味し,自己中心的な欲望である煩悩や執着の炎を滅した状態をさす」と言います。
 この際ですから、「悟り」も見てみますと、ぐっと短く、「迷妄を払い去って生死を超えた永遠の真理を会得すること」とあります。
 こうして三つを並べてみると、悟りを得て、解脱し、涅槃に赴く、というようなことになりそうで、なるほど、順序があるようです。
 が、多分この三つはすべて一連の、そして一体のものと考えるべきなのでしょう。
 「若し爾らざれば、既に道人に非ず。又白衣に非ず。名づくる所無し」という恐ろしい言葉がありますが、『神曲』(ダンテ)の「地獄編 第三曲」にも同じような話があります。
 ダンテが詩人ウェルギリウスに導かれて地獄の門の前に立つと、そこには泣きわめくたくさんの人々がいました。
 どういう人々かと尋ねるダンテにウェルギリウスはこう言います。
「恥もなく誉もなく世を送れるものらの悲しき魂なり。彼等に混じりて、神に逆らへるにあらず、また忠なりしにもあらず、ただ己にのみ頼れるいやしき天使の族あり。…世は彼等の名の存る(のこる)をゆるさず、慈悲も正義も彼等を軽んず、我等また彼等のことをかたるをやめん、汝ただ見て過ぎよ」。》



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