八つには不戯論(フケロン)。証して分別を離るを、不戯論と名づく。実相を究尽(グウジン)す、乃ち不戯論なり。
 仏の言はく、
「汝等比丘、若し種々の戯論(ケロン)は、其の心則ち乱る。復た出家すと雖も、猶ほ未だ得脱せず。是の故に比丘、当に急ぎ乱心戯論を捨離すべし。
 汝若し寂滅の楽を得んと欲せば、唯だ当に善く戯論の患(トガ)を滅すべし。是れを不戯論と名づく。」
 これ八大人覚なり。一一各具八(イチイチカクグハチ)、すなはち六十四あるべし。ひろくするときは無量なるべし、略すれば六十四なり。
 

【現代語訳】
 第八には不戯論(無益な議論をしないこと)である。仏の教えを悟って、妄想分別を離れることを不戯論という。つまり、真実の法を究めることが不戯論である。
 仏の言うことには、
「比丘(僧)たちよ、もしいろいろ無益な議論をすれば、心は乱れるものである。またお前たちは、出家したけれども、まだ解脱を得ていない。だから比丘は、すぐに心を乱す無益な議論を捨てなさい。
 お前たちが、もし寂滅(煩悩を滅ぼした涅槃)の楽を得ようと思うなら、ただ無益な議論のとがを滅ぼしなさい。これを不戯論という。」
 これが八大人覚です。この一つ一つには、すべてこの八つの法が具わっているので、この法はつまり六十四あります。これを広く説けば無数であり、略すれば六十四なのです。
 

《戯れの議論をしないこと、という心得ですが、戯れの議論とそうでない議論がある、というのではなく、議論というのは所詮戯れなのだから、そういうことはしない、ということでしょう。
 では何が戯れでなく真実かというと、「実相を究尽す」、事実こそが大切だ、ということのようです。この言葉、ここでは「真実の法を究める」と訳されていますが、「一切のあるがままの姿を究めつくす」(『全訳注』)、「われわれの住んでおる世界の実体がどういうものであるかというその実際の姿を徹底的につかむ」(『提唱』)のような理解の方が分かりやすく思われます。
 議論というのは、そこにあるものの意味を考えることで、それがあるのかないのかということには、議論の余地はありません。
 スポーツ選手の好不調時の違いが、その道の達人には明瞭に見えるようですが、私のような一ファンには見えません。悟った人には見えるものが、悟らない人には見えない、そこにも議論の余地はないわけです。
 第四章でも触れましたが、議論している間は、まだまだ未熟だということで、大変に分かりやすい基準だと思われます。
 最後の教えにふさわしい話だという気がします。
 終わりの「これ八大人覚なり」以下は禅師の言葉ですが、「一一各具八」が分かりません。
 「少欲」の中にさらに「少欲」「知足」「楽寂静」「勤精進」…の八つのことが備わっており、「知足」にもまた同様に、ということで、さらにその中の「少欲」がまた八つを備えていて、さらにその中の、ということでしたがって全体は無限大の数になる、ということでしょうが、それは一体どういうことなのか。
 具体的に、「少欲」の中にある「少欲」とは、あるいは「知足」とはどういうことか、…。
 分からないままに、いや、そういう算術的な話ではなくて、逆に、この八つは相互に関連しあって、結局は一つのことを言っているのだ、ということなのかもしれないと思ってみます。
 それを一言で言ってしまったのでは、把握しがたいであろうから、あえて分かりやすく項目としてあげればこの八つになるのだ、だからその一つ一つをどれほど深く考えても、それでは足らない、あくまでこの八つのことをまとめて一つのものとして自分の態度としなくてはならないということではないだろうか、などと思ってみるのですが、…。》


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