大師釈尊最後の説は、大乗の教誨(キョウカイ)する所、二月十五日夜半の極唱(ゴクショウ)なり。これよりのち、さらに説法しましまさず。つひに般涅槃(ハツネハン)しまします。
 仏の言はく、
「汝等比丘、常に当に一心に勤めて出道を求むべし。
 一切世間の動不動の法は、皆な是れ敗懐(ハイエ)不安の相なり。
 汝等且(シバ)らく止みね、復た語(モノイフ)こと得ること勿れ。
 時将に過ぎなんと欲す、我れ滅度せんと欲す。是れ我が最後の教誨する所なり。」
 このゆゑに、如来の弟子は、かならずこれを習学したてまつる。これを修学せず、しらざらんは、仏弟子にあらず。これ如来の正法眼蔵涅槃妙心なり。
 しかあるに、いましらざるものはおほく、見聞(ケンモン)せることあるものはすくなきは、魔嬈(マニョウ)によりてしらざるなり。
 また宿殖(シュクジキ)善根のすくなきもの、きかず、みず。
 むかし正法、像法(ゾウボウ)のあひだは、仏弟子みなこれをしれり、修習し参学しき。いまは千比丘のなかに、一両箇(イチリョウコ)の八大人覚しれるものなし。
 

【現代語訳】
 この大師釈尊の最後の教えは大乗の教えであり、二月十五日夜半の究極の説法です。
 これ以後は、まったく説法なさらず、ついに入滅されました。
 仏(釈尊)の言うことには、
「比丘(僧)たちよ、常に 一心に力を尽くして、六道(迷いの世界)から抜け出ようと願いなさい。
 すべて世間に存在する動くもの、動かざるものは、皆壊れるもの、不安定なものである。
 お前たちは暫くの間静かにしていなさい。また話をしてはならない。
 今最後の時が過ぎようとしている。私は今、煩悩を滅ぼした涅槃に入るであろう。これが私の最後の教えである。」と。
 このことによって、仏弟子は必ずこの教えを学んできたのです。ですから、これを学ばず、これを知らない者は、仏弟子ではありません。これは釈尊の正法眼蔵涅槃妙心(煩悩を滅ぼす悟りの智慧)なのです。
 それなのに、今では知らない者が多く、見聞きしたことのある者が少ない訳は、修行者の心が悪魔のために乱されているからです。
 また過去世の善根の少ない者は、この教えを聞くことも見ることもありません。
 昔、正法の修行が行われていた時代や、正法に似た修行が行われていた時代には、仏弟子は皆これを知っていて修行し学びました。しかし今は、千人の比丘の中でも、ただ一人二人でさえ八大人覚を知っている者はいません。
 

《この章は禅師の言葉です。
 「大師釈尊最後の説」というのは、この「八大人覚」の教えを指しているということのようで、巻頭に書きましたが、これが釈尊の最後の教えだったということになります。ということは、当然、これが極めて重要な教えであるということでもあるでしょう。
 次の「仏の言はく」はその教えの最後に付け加えた言葉でしょうか。つまり、この八つのことを心構えとして「一心に勤めて出道を求むべし」ということになります。
 「汝等 且らく止みね。…」は、私の入滅を悲しみ騒ぐな、ということでしょうか。静けさの中で生を終えたいということでしょうか、いずにしても、この言葉によって、急に釈尊の生身の姿が見えるような気がします。
 「このゆゑに」は、釈尊があえて最後に語ったことだから、ということでしょう。だから、弟子たちはこのことを大切に守ってきたのだ、お前たちもそれを受け継がなければならない、…それはそのまま、同じように死に臨んでの禅師の思いでもあったのでした。
 途中、「動不動の法」は諸注、動くものも動かないものも、と解していますが、動かないものが「不安定」だというのは解せません。動いたり動かなかったりするもの、つまり揺れ動くもの、と解したいのですが、そういう意味にはならないのでしょうか。


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