あはれむべし、澆季(ギョウキ)の陵夷(リョウイ)、たとふるにものなし。
 如来の正法いま大千に流布して、白法(ビャクホウ)いまだ滅せざらんとき、いそぎ習学すべきなり。緩怠(カンタイ)なることなかれ。
 仏法にあひたてまつること、無量劫(ムリョウゴウ)にかたし。人身(ニンシン)をうること、またかたし。
 たとひ人身をうくるといへども、三洲(サンシュウ)の人身よし。そのなかに南洲の人身すぐれたり。見仏聞法(モンポウ)、出家得道するゆゑなり。
 如来の般涅槃よりさきに涅槃にいり、さきだちて死せるともがらは、この八大人覚をきかず、ならはず。
 いまわれら見聞したてまつり、習学したてまつる、宿殖善根のちからなり。
 いま習学して生生(ショウジョウ)に増長し、かならず無上菩提にいたり、衆生のためにこれをとかんこと、釈迦牟尼仏にひとしくしてことなることなからん。
 

【現代語訳】
 悲しいことです。末世の仏法衰退は例えようもありません。
 釈尊の正法は、今 全世界に行き渡っていますが、この正法がまだ滅しない間に、急いで学習しなさい。怠ってはいけません。
 仏法に巡り会うことは、無量の時を経ても難しいのです。そして、人間として生まれることもまた難しいのです。
 たとえ人間として生まれても、東方西方北方の三世界の人間は優れていますが、中でも南方世界の人間はさらに優れています。
 何故なら、仏に見えて法を聞くことができ、出家して悟ることが出来るからです。
 釈尊の入滅より先に入滅し、先だって死んだ仲間は、この八大人覚を聞かず習いませんでした。
 今、我々がこの教えを見聞きし、学習できるのは、過去世の善根力のお陰なのです。
 ですから、今学習して、生まれ変わるたびにその功徳を増長し、必ず無上の悟りに至り、そして釈尊のように、衆生のためにこの教えを説くのです。
 

《「澆季の陵夷」の、澆は「うすい」、季は「おとろえた世」、陵は「丘」、夷は「たいらげる」で「陵夷」となると「物事が次第におとろえすたれること」(『漢語林』)。いわゆる「末法」の世(一〇五二年がその始まりとされます)という気持ちでしょうか。
 禅師がこの「八大人覚」を説いたのは、一二五三年で、歴史を見ると、このころは禅師の他にも、親鸞が都にあり、日蓮が東国にいて、少し後では一遍が時宗を開くといった時代で、むしろ日本における仏教興隆の時のように見えるのですが、あるいは、末法という危機感が、逆にそういう現象を招いたということで、禅師を始め、かの人たちの活動はいずれもそういう悲観的な思いや焦燥感が裏にあったのかもしれません。
 「いまだ滅せざらんとき、いそぎ習学すべきなり」には、具体的にそういう感じがありますし、また「宿殖善根のちからなり」などにも、教えに触れたことがいかに幸運であったかを説くことで、その幸運を決して逃してはならないぞという切迫した教えがあるように思われます。


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