深く慶悦を生じ、尋いで城内に帰り、宮門に侍立(ジリュウ)し、使いに附して王に啓し、入りて奉覲(ブゴン)せんことを請ふ。
 王喚び入れしめ、怪しんで所由(ユエ)を問う。是に於いて黄門、具に上(カミ)の事を奏す。王聞いて驚喜し、厚く珍財を賜う。転じて高官を授け、外事を知らせしむ。
 是の如くの善業(ゼンゴウ)は、要(カナラ)ず相続を待って、或いは相続に度(ワタ)りて、方に其の果を受く。
 あきらかにしりぬ、牛畜(ゴチク)の身、をしむべきにあらざれども、すくふひと、善果をうく。いはんや恩田(オンデン)をうやまひ、徳田(トクデン)をうやまひ、もろもろの善を修せんをや。
 かくのごとくなるを、善の順現法受業となづく。善により悪によりて、かくのごとくのことおほかれど、つくしあぐるいとまあらず。
 

【現代語訳】
 黄門は深く喜んで、すぐ城内に帰って王宮の門にかしこまって立ち、使いに言づけて王に拝謁を請いました。
 王は黄門を呼び入れて、いぶかって理由を尋ねると、黄門は詳しくこれまでの出来事を申しあげました。話を聞いた王は大変喜び、たくさんの珍しい財物を黄門に与えて、さらに転職して高い官位を授け外務に当たらせました。
 このような善業は、必ず現世に因果の相続を待って、或いは因果の相続を現世にわたって、その果報を受けるのです。
 この話から明らかに知ることは、牛の身体は大切に思うべきものではないが、それを救った人は善い果報を受けたということです。まして恩田(恩を受けた父母や師長)を敬い、徳田(功徳のある如来や阿羅漢)を敬って多くの善を修めれば、必ずや善い果報を受けることでしょう。
 このような例を、善業(善き行い)の順現法受業というのです。善業や悪業によって、このように果報を受けた例は多いのですが、今すべてを取り上げることはできません。
 

《その宦官は大喜びして、と、ここまではいいのですが、「使いに附して王に啓し、入りて奉覲せん」とした、というのは、ちょっと意外です。そういうことは、王に直ちに直々に伝えることなのでしょうか。
 また、「王聞いて驚喜し」というのも、「驚」はいいとしても、「喜」は、何か、王と黄門の間に人間的交流があったような感じでちょっと意外です。
 また、この善行によって与えられた役職が「外事を知らせしむ」であったというのも、どうもちがうんじゃないかという気がします。
 しかし、そういう詮索は本題ではありませんから、そういうことだったのだと承知することにしましょう。
 かくして黄門は莫大なお褒めの金品を賜り、さらに職務の上でも要職に抜擢されました。
 牛の身を助けるという小さな善行(と禅師自身が言うのは、らしくないような感じで、別の意味でちょっと意外です)によって、大きな報いを受けたわけですが、こういうこと、つまり現世において行った善行によって現世においてその報いを受けることを「善の順現法受業」というのだ、と結ばれます。》

 

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