1 室羅筏(シラバ)国に昔二(フタリ)の人有り、一(ヒトリ)は恒に善を修し一は常に悪を作す。修善行(シュゼンギョウ)の者は一身の中に於いて恒に善行を修し未だ嘗て悪を作さず。作悪行(サアクギョウ)の者は一身の中に於いて常に悪行を作し未だ嘗て善を修せず。
 善行を修するもの、臨命終の時、順後次受の悪業力(アクゴウリキ)の故に、欻(タチマチ)に地獄の中有(チュウウ)ありて現前す。
 便ち是の念を作さく。「我が一身の中に、恒に善行を修して、未だ嘗て悪を作さず。応に天趣に生ずべし。何の縁にて此の中有ありて現前するや。」
 遂に念を起こして言(イワ)く、「我定んで応に順後次受の悪業有りて、今熟すが故に、此の地獄の中有現前せるならん。」
 即ち自ら一身より已来(コノカタ)修する所の善業を憶念して深く歓喜を生ず。
 勝善思現在前するに由るが故に、地獄の中有は即便(スナワチ)ち陰歿(オンモツ)して、天趣の中有欻爾(タチマチ)に現前し、此れ従り命終して天上に生ぜり。
 

【現代語訳】
 室羅筏国に昔、二人の人間がいました。一人は常に善を修め、もう一人は常に悪を為していました。善行を修める者は、一生の中に於いて常に善行を修して、未だ悪を為したことがありませんでした。また悪行を為す者は、一生の中に於いて常に悪行を為して、未だ善を修めたことがありませんでした。
 善行を修めた者は、命が終わる時になって、順後次受の悪業力のために、たちまち地獄の中有が目の前に現れました。
 そこで自ら思うに、「私は一生の中に常に善行を修めて、未だ悪を為したことは無い。それなら天界に生まれるはずである。何の因縁でこの地獄の中有が現れるのだろう。」と。
 そして思い至って言うに、「私にはきっと前世に順後次受の悪業があり、それが今熟して、この地獄の中有となって現れたのであろう。」と。
 そこで、自ら一生の中に修めた善業を思い起こして、深く喜びました。
 すると、優れた善の思いを起こしたことによって、地獄の中有はすぐに消え、天界の中有がたちまち現れて、その命が終わると天上界に生まれました。
 

《前章の終わりの謎の言葉を受けた例話で、まずはその中の「思惟それ善なれば、悪すなはち滅す」の例です。
 現世で悪をなしたことのない人が死に臨んで地獄への道を示されました。その不都合を、彼は一度は不審に思ったのですが、しかし自分の前々世において悪をなしたことがあって、今の世においてその報いを受ける(順後次受)のだろう、と考えました。
 そして自分が前世において悪をなさず、ひとえに善をなしてきたことを思って「歓喜」したのでした。
 すると、そのように大変優れたよい考えをまざまざと思ったことによって、さっきまで目の前にあった「地獄の中有」は消えて、彼は「天上」に生まれたのでした、…。
 途中、「作さく」と「定んで」が読めませんが、どうやら「なさく」、「さだんで」と読むようです。「為す」の体言化した形、「定めて」の音便形ということでしょうか。》


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