参学のともがら、この三時業をあきらめんこと、鳩摩羅多尊者のごとくなるべし。すでにこれ祖宗の業なり、廃怠(ハイタイ)すべからず。
 このほか不定業(フジョウゴウ)等の八種の業あること、ひろく参学すべし。いまだこれをしらざれば、仏祖の正法つたはるべからず。
 この時業の道理あきらめざらんともがら、みだりに人天の導師と称することなかれ。
 

【現代語訳】
 仏道を学ぶ仲間は、この三時業を鳩摩羅多尊者のように明らかにしなさい。これは仏祖の宗門の務めであり怠ってはいけません。
 この他に果報の時期が定まらない不定業など、果報のある業と果報のない業と合わせて八種の業があることを広く学びなさい。これを知らなければ仏祖の正法は伝わらないのです。
 ですから、この三時業の道理を明らかにしていない仲間は、みだりに人間界天上界の導師と称してはいけません。
 

《この節の「このほか」以下終わりまでは『全訳注』にもある言葉で、「不定業」「八種の業」については、以下の注があります。
「不定業」・順不定業である。つまり果報を受ける時期の定まらない業である。
「八種の業」・順現報受業などの三つに、いまの不定業を加えると四種の業になる。それらを善悪によってさらに二つにわければ八種の業となるのである。
 そして『全訳注』は、この後に、先に挙げた短い文章があって(第十六章3節)、次の第十八章の文章に合流します。その短い文章がちょっと気になりますので、再掲します。
「かの三時の悪業報、かならず感ずべしといえども、懺悔するがごときは、重きを転じて軽受せしむ。また滅罪清浄ならしむるなり。善業また随喜すれば、いよいよ増長するなり。これみな作業の黒白にまかせたり。」
 気になるのは、前世において行ったことは当人には分からないことではないかと思うのですが、それを「懺悔」することができるだろうか、ということであり、また、できるとして、それなら先にあった師子尊者や二祖大師は、あれほどの人でありながら「懺悔」をしなかったのだろうか、ということです。
 あるいは、「懺悔」していたからこそ、災厄があの程度で済んだのだということなのかもしれませんが。…。》


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